「お袋が、お前と雄太を比べちゃうんだよ。お前は大人しい時期があったのに、雄太が落ち着きがないって」
 その夜、晩酌しながら兄が言った。
 兄の言葉にわたしは目を剥く。大人しくなったなんてほんの数日のことだろうに(現にすぐ落ち着きがなくなったと言っていた)、親というものは不思議なものである。「このおかずが好き」と言えばいつまでも覚えていて夕飯に出してくれるし、子供の頃の良かったエピソードは何度も繰り返し話してくれる。
 でも、それは親だからだ。他人の子供だったら覚えないし、孫が可愛いのも自分の子の子供だからだ。
 比較されては雄太もたまったものじゃないだろう。いや、母も別に比べているわけではないのかもしれない。
「お母さんは単に、思い出話してるだけのつもりなんじゃないかなあ。清美さんもそんなことで引け目感じる必要なんてないんだよ。だって今じゃただのズボラな嫁き遅れだよ、わたし。幼稚園児が気まぐれにお姉さんぶってみただけの話に、付き合ってあげることないよ」
「そうだよなあー」
「そうだよなあって、なに他人事みたいに言ってんの! お兄ちゃんがちゃんとそれフォローしないといけないんだよ。自分の嫁さんと子供のことでしょ。お母さんに話して、とりあえずは妙にわたしを褒めるのやめさせて、清美さんと話し合いしないと逃げられるよ? 大げさじゃないよ。家の中に女が二人いるゆえの嫁姑問題だと思って軽く見てたら、痛い目に遭うのはお兄ちゃんと雄太なんだからね」
 わたしは珍しく大きめの声で兄を怒る。男というのはまったく鈍感な生き物である。父もそうで、母は何度か離婚の二文字が頭をよぎったことがあるという。姑と折り合いが良くなくて、それはいいとして間に立つ夫がアホで別れるなんてありふれた話なのだ。
 自分は当然経験したことはないけれど、三十八年も女やってれば嫌でも耳に入る。
「怒ると小皺が増えるぞ」
「うっ、うるさいな」
 ほんとデリカシーがない。
「明日は駅まで送ってくわ。新幹線だろ」
「うん。ありがと」

 リビングを出ると、清美さんと鉢合わせた。もしかして、聞いてたのかな。
「あ……」
「清美さんあのね、えーっと」
 わたしは言葉を探す。
「お……お兄ちゃんはわたしより全然落ち着きなかったよ! いっつもそわそわしてたし、エネルギー有り余っててランドセルなんか四年生の時点でもう完全にペッチャンコだったし! 男の子ってきっとそんなもんだよ!」
 ……我ながら酷い。でも、子育てなんてしたことないし他に言いようもない。そう思っていると、清美さんはプッと笑って、
「そうね」
 と一言言った。
 伝わったかどうかは分からないけど。
 わたしがたった数日大人しかったのは、中身が今のわたしだったからに違いない。
 もう何の疑いもなくそう思う。
 夢だけど。
 夢じゃなかった。(懐かしい)



「課長やっぱり意外とやりますね〜」
 週明け、出社したわたしを迎えたのは女子社員のひそひそ声だった。
「な、なにが?」
 たじろぎながらデスクにコーヒーを置く。
「歓迎会で、近藤課長に熱い視線を送ってたじゃないですかあ」
「えっ」
 いいえ、傷痕が気になっただけです。というかそんなシーン見てたんかい!
「そんなねー、何でもかんでもそういうことに結び付けちゃ駄目だよ。だいいち近藤課長にも失礼でしょうが」
「だってえ」
「僕がどうかしました?」
 営業部の扉を開けて、近藤課長が現れた。
「いえ、何も」
 慌てる女子社員を横目にしれっと答えつつ、わたしは近藤課長のこめかみを見た。
 やっぱりある。
 『しなければならないこと』の二つ目はこれだ。
「あ、コレ」
 近藤課長がはにかんだ。……こんな顔もするのか。それより『コレ』がなんだって?
「憶えてないんですよ。かなり小さい頃にできたと思うんですけど、この傷」
 心臓が早鐘を打つ。
「ご、ご両親が憶えてるかも知れませんよ」
「僕が子供の頃、両親忙しくて。離婚して僕の面倒見てた母親も出て行って、判らないままなんですよこれ」
「あ……なんかすみません」
 とんだ藪蛇だった。
「いえ、僕は気にしないので」
 なんかほんとすいません。近藤課長は自分のデスクに向かっていった。
「鶴谷課長はどうなんですかあ?」
 女子社員が小声で話しかけてくる。
「や、だから、わたし本当にそんなんじゃないのよ」
「なーんだ。つまんない」
「……植野、今日の販促会議で三つは提案しな」
「えっ。そんなー」
 情けない顔をして、植野は自分の席に戻った。


 人気のないフロアに、キーボードを叩くリズミカルな音が木霊する。
 今日はわたしが持ち回りの鍵閉め当番なので、まだ帰ってきてない社員を待っているというわけだ。その社員というのが、……近藤課長だった。
 同じく居残っている営業部長が、衝立の向こうで大きなあくびをするのが聞こえた。
「部長、もう帰っちゃっていいですよ」
「うーん、じゃあそうさせてもらおうかなあ。報告書待ちだけど明日でいいや」
 原則的に仕事の持ち帰り禁止の会社なので、彼も近藤課長を待っていたのだ。
 営業部長が退出してしまうと、広い営業部フロアはますますがらんとしてしまった。
 急に寒気を感じる。静まり返った薄暗い社屋に幽霊が、とかそんなんじゃなくて、週末治まっていた熱がぶり返してきたのだと思う。ひざ掛けを広げて肩から羽織る。他に誰もいないからこそできる、お行儀の悪い格好だ。
 会議の資料作りをしていると、遠くから足音が聞こえた。走っている。近付いてくる。そして、ドアを開けた。
「す、すみません、遅くなって!」
 近藤課長が勢いよく頭を下げた。思わずわたしは破顔する。
「そんなに急がなくても良かったのに」
「すみません、急いで報告書作りますんで、待っててください」
 待っててくださいだって。なんか可愛いじゃないの。わたしと同い年とは思えない可愛げだ。

 近藤課長がキーボードを叩く音がする。わたしは自分の仕事を終え、ちらりと時計を見た。十九時五十八分。今日の晩御飯どうしよう。今から帰って作ってたんじゃ遅くなりすぎる。先週末は実家に帰ってたからできなかったけど、やっぱりある程度週末に作り溜めしておかないと。
 わたしは机に肘を突く。
 白身魚のフライ。大根と豚肉の煮物。牛すじ煮込み。白和え。ささみとピーマンの炒め物。ほうれん草の胡麻和え。卵焼き。クリームシチュー。ごぼうと人参のきんぴら。がんもどき。おでん。冷奴。さきいか。枝豆。ビール……。


「はーい、みなさんに大事なお知らせがありまーす」
 菅原先生が園児たちを席に着かせた。
 キヨフミ君がその隣にいる。
「今度、キヨフミ君が大阪にお引越しすることになりました。なので、みんなでお別れの手紙を書きましょう」
 園児の誰かが問う。
「おおさかってどこー?」
「うんと遠いところだよ」
 菅原先生が答える。
「お手紙は、ひらがなで書かなくてもいいです。キヨフミ君とみんなが遊んでるところを絵に描いてお手紙にしてあげてね」
 わたしは――、わたしは字で書くことを選択した。キヨフミ君が今は読めなくても、大人になって読み返してくれることがあるかもしれないから。「いっぱいあそんでくれてありがとう。おおさかにいってもげんきでいてください。 つるたにしおり」多分そんなことを書いた。なんとなく、このあたりは不鮮明である。
 それにしても随分急な引越しだ。幼稚園時分は気付かなかったけど、新学期が始まって早々というのはあまり聞いたことがない。
 そこで、わたしの記憶は繋がった。『離婚して、母親が出て行った』と近藤課長は言った。キヨフミ君は大阪に引越しになるのだという。多分、そう、近藤課長はキヨフミ君なんだ。大阪にはお父さんがいて、幼稚園まで育ててくれたお母さんは出て行く。だから、傷痕の詳細を知っている人がいないんだ。
 そんなことを考えていたら、何だか涙が出てきた。キヨフミ君は、遊具倉庫に閉じ込められたとき泣いていた。きっと、子供心に、一人で子育てをしているお母さんを心配させるのが辛かったんだ。
 キヨフミ君、近藤課長が当時のことをあまり憶えていないのは、直後に頭の傷などどうでも良くなるような出来事――両親の離婚があったからだろう。


「鶴谷課長?」
 は、と気付くと、近藤課長が横に立っていた。半分点いた明かりが彼を影にしている。
「どうしたんですか」
「え」
 不思議そうな近藤課長の言葉に気付くと、頬が濡れている。視界が歪んでいる。わたしは泣いていた。そうだ。幼稚園の夢とは変なところでリンクするのだった。
「あ、いや、キヨフミ君が引越しを」
 ずびっと鼻を啜る。
「俺?」
 変なこと――夢の話を口走ってしまったわたしに、近藤課長が目を丸くした。言葉が知らぬ間に素になっている。
「えっ?」
「えっ?」
 互いに間抜けな顔で、相手を眺めた。
「え?」
「いや、お、俺下の名前キヨフミって」
「ちょっと、ちょっと待って、わたしさっき確信したことがあるんだけど! 近藤さん年中の初めまで柏木幼稚園に通ってなかったっ? つい今しがた思ったんだけど!」
「え、ちょっ、え、なんでそんなこと。確かにおれ出身その辺だけど」
「やっぱり!」
 わたしは声を上げた。疑いは、現実になった。やっぱり近藤課長はキヨフミ君だったのだ!
「憶えてない? わたし、つるたにしおり。一緒に遊具倉庫に閉じ込められちゃったホラ」
「ゆ、遊具そうこ」
 近藤課長――聖史君はわたしの言葉を反芻して、考え込んでしまった。
「窓開けて、外の人呼んで開けてもらったの。それで、そのとき怪我したんだよ、頭!」
 もう丁寧語を使うことも忘れて捲し立てる。
 頭、という単語を聞いた瞬間、近藤課長はこめかみに手をやってわたしを見た。
「鶴谷……しおり」
「そうだよ!」
 それなりに整った、でもそれなりに年齢を重ねた顔が驚きに染まる。
「絵じゃない字の、手紙くれた!」
「そうだよ!」
「え、嘘、ほんとに? 俺……えーっ!」
「ほんとだよ!」
 あっははは! 知らず知らずに笑い声が上がる。悲しかった涙が笑い泣きになった。
 わたしは隠し事をカミングアウトしたみたいな清々しい気持ちだった。
「俺読めなかったんだよ、あの手紙! ひらがなも微妙だったから」
「なんか、そうじゃないかなと思ってた」
「それで引越しのときどっかやっちゃって……実家にあるかちょっと分かんないけど」
「あの――あのね」
 わたしは思い切って、切り出した。これはどうしても言っておかなければならないと思ったのだ。
「何?」
「遊具倉庫の騒ぎの後に、カブトムシくれたの憶えてる?」
 引き出しから二冊のノートを取り出し、ぱらぱらと開く。
「憶え――てない」
「そうだよね。傷のことも忘れてたくらいだからしょうがないよ」
 自由帳に書かれたカブトムシの飼育記録を広げ、わたしは促した。読んでくれ、と。
 聖史君は神妙にノートを手にする。ああ。今気付いたけど、多分このノートは、キヨフミ君が引っ越すときにクラスの皆に配ったものじゃないかな。
 園児の字は汚いし、ところどころ反転していて読みづらいことこの上ないだろうが、聖史君はちゃんと記述が終わるまで読んでくれた。
 そのノートは、途中で記入が終わっている。
「もしかして、これ」
「そう。……わたし、どうやらカブトムシの飼育に失敗したみたいなの」
 カブトムシは蛹になったあと、うまく羽化できずに死んでしまったのだと読み取れる内容。
 ちゃんと育てるって決めたのに。
 夢の中に飼育方法を調べたときの知識を持ち込んでいれば、夏には大きなカブトムシが姿を現したかもしれないのに。
「折角立派な幼虫くれたのに。ごめんなさい」
「そんな」
 聖史君は首を振る。
「そんなに気にしなくてよかったのに。カブトムシには可哀想なことだったかもしれないけど」
「うん。そう言ってくれると思ってた。ただわたしがこだわってただけ。謝れてすっきりした」
 目尻に溜まった涙を拭う。
 カブトムシさんごめんなさい。
「というか、そんな昔のこと憶えてたんだ」
「えっ、うーん」
 聖史君の素朴な疑問に口ごもる。言ったって信じてもらえるかどうか。つい最近、追体験したんだと。
「まあそんなこともある……かな」
「ふーん……?」
 腑に落ちなげな聖史君だが、
「じゃあ再会記念に、ご飯でも行きましょうか、詩織ちゃん?」
 などと言う!
「え、お、おう!」
 不意打ちのちゃん付けにへどもどしつつ、わたしは立ち上がった。
 おうって。色気も素っ気もないな。


 それから。
 日にちが経って、別に何かが急に変わったわけじゃない。
 ただ、わたしの一日の過ごし方は確実に変化した。
 いつぞやの飲み会で言った『雲みたいなお布団』も、今のところキープできている。
 料理もそれなりにするようになった。
 あくまで素人料理だし、それを食べさせる相手は……いないけど。
 マンションの購入にも前向きになっている。
 今日も、昼休みに何枚かのチラシとにらめっこして。
「鶴谷、マンション買うの?」
「そのつもり」
 聖史君とは丁寧語を外して喋るようになった。
「結婚したらどうするの?」
 チラシの半分はシングル向けマンションのものだ。
「貸しに出せるんですってよ。ファミリー向けならそこに住んでもいいし」
「ふーん?」
 ……。
「幼稚園の頃はわたしら、『キヨフミくんとけっこんする』って言うレベルで仲良かったらしいよ」
 由香が言ってた。
「えっ」
 えっじゃねーよ。
「してくれるの? 結婚」
 意地悪く訊いてみる。
「えー、うーん。えー」
 ほら、困ってる。
「冗談だっての」
「お友達からで」
「えっ」
「えっ?」
 おい。冗談でいいんだよ。こういうのは。
「冗談……?」
「おう」
「……そっかー……」
 何だその微妙な表情。
 おまえアレだな、人たらしだな!
 四月生まれの(君よりちょびっと)お姉さん、本気にしてしまうぞ。

 あれ以来、わたしは幼稚園児にはなっていない。
 きっかけが何だったのかは解らないけど、あれを機にわたしの生活は大幅に改善されたといえるだろう。
 人生は生活の積み重ね。だとしたら、わたしは人生を変えたことになるのではないだろうか。あくまで、この生活を継続できれば、の話だが。
 とすると。あれは多分ターニングポイントだったのだ。文字通り、生き方を左右する分岐点。
 神様が(いるのなら)ほんの気まぐれに置いた記憶の蓋、その岐路。
 幼稚園児に戻って人生やり直すのも悪くないけど、世の中そんなに美味い話はないものだ。
 いいや、この転換点があっただけでもかなり美味い話だったと言えよう。
 少なくとも旧友に会えて、いい友達関係を築くことができているのだし。
 でも、ほんのちょっと、やっぱり未練があるものだ。
 耳に残る、園庭を走る園児たちの声。
 瞼に浮かぶ、その姿。
 有り余った体力を思うさま存分に消耗する子供たち。
 もっと力いっぱい遊んでおけばよかったな。
 そんなことを思うのだ。
「近藤君」
「ん?」
「もし良かったら、今日ブランコ漕ぎに行こう」
「……またわけわかんないこと言い出したな」
 思い立ったが吉日だ。
「ブランコを漕ぐことでいいアイディアが出る気がする」
「はいはい、解りましたよ」
 さすが園の同窓生は物分りがいい。
「あと」
 これは言い忘れてたけど。
「ドッヂボール、誘ってくれてありがとね」
 おままごとで置いてけぼりを食らったとき。
 すごく楽しかった。
 聖史君は「そんなことあったっけ?」と傷痕のあたりを指で掻く仕草をした。
 あったんだよ。自分も覚えてなかったけど。

 どうしてそんな瑣末なことを憶えているのかは……、もし今後、もっと仲良くなることがあったら教えてやろう。そのとき聖史君が信じても、信じなくてもいい。


 奇妙なまでに晴れやかな気持ちで、わたしは午後の始業のチャイムを聞いた。











1:14 2015/01/14



「ちなみにさあ、ミキさんってとこの子の下の名前憶えてる? 女の子で目がくりくりした子」
「えっなんで? 全然憶えてないけど」
「あーやっぱりか……うん、いや何でもないよ。何でもない」
「ふーん……?」
 結局これは、謎のままらしい。






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