「何か――、何か、課長ご機嫌じゃない?」
「確かに。彼氏でもできたのかな」
聞こえてますよ、君たち。おくびにも出さないけど。
べっつに彼氏は出来てません。
ただカブトムシ貰いました。
そう、あの、夏の男の子に大人気の昆虫。
お昼休みになってから、わたしはカブトムシの生育方法をネット検索していた。
発泡スチロールの箱は駄目だとか、腐葉土は広葉樹の入っているものがいいとか、雄と雌の見分け方とか。
本当にいい歳こいて、何やってるんでしょうね。自分でも解りません。
ちなみに今日、わたし微熱があります。ちょうど三十七度。夜中暑かったのはそのせいか、それとも寝汗が冷えて熱が出たのか。どっちにしろ、夢(?)とそんなとこリンクしなくていい、と思った。
「課長、今日歓迎会あるんですよね?」
「あるよー」
ほとんど上の空で答える。
夢の中まで検索結果は持っていけないので、必死で覚えているのだ。
「会費とかは社長に訊いてねー」
その社長が、近藤課長を伴って昼食から帰ってきた。小さな会社だし、社長は気軽に社員をご飯に誘う。社長がパソコンの画面を覗き込んできた。
「あっ、パソコンの私的利用だ。何々? カブトムシの育て方? どうしたの鶴谷君。およそ虫なんか興味なさそうなのに」
「あー、えーと、甥っ子が幼虫を貰ってきまして」
大嘘こいた。すまん甥っ子(兄の子である)。
「カブトムシかあ、俺も昔育ててたなー。いっそ会社でもなんか生き物飼っちゃう?」
マスコット的な。
あ、それはいいかもしれない。
「犬とかいると会社サイトのブログなんかにアップできていいですね」
「でしょでしょ」
「犬だと誰が散歩行くんです?」
「……じゃ、今日の飲み会ヨロシクねー」
そそくさといなくなる社長。
誰も名乗りを上げないところが我が社である。
「僕も」
残された近藤課長が不意に言葉を発した。
「へ?」
「昔好きでしたね、カブトムシ」
「へえ。何か意外」
女子社員が声を上げる。確かに彼はインドア派に見える。
「土、篩いに掛けたりして。面白いですよ」
「もしかして今もやったりとか」
「まさか。小学校の自由研究まででしたね」
少々口角を上げて近藤課長は答える。
そうか。カブトムシ好きだったか。やはり少年たちにとって、大きなカブトムシはステータスなのだ。
それを、しかも結構立派なのを気前よくくれたのだから、キヨフミ君ありがとう。
たとえ現在のわたしが虫が苦手だとしても。
乾杯を合図に、それぞれの喉をビール(と、その他)が潤す。
わたしはビールだったが、隣の女子社員はカシスオレンジだった。さすが。女子力高い。まあおばさん的にはもう女子力とか言っちゃいけない気がするが。
今日の歓迎会は、社長お気に入りの隠れ家的洋風居酒屋を貸切だ。
海老のフリッターを口に運んでいると、後ろの席からこんな会話が聞こえてきた。
「近藤課長って、独身なんですかー?」
おおう。切り込んでいくなー。近藤課長はどうやらわたしの斜め後ろにいるようだ。
「うーん。前結婚してたんだけどね」
「えっ、じゃあバツイチですか?」
「まあ、そうなるかな」
「なんで別れちゃったんですか? 浮気とか?」
「ははは。そのほうがすっきりするんだろうけど、一言で言うと、すれ違いかな。お互い忙しくて、対話の時間が持てなかったというか」
「へえーっ」
「何か切なーい」
お互い忙しくて、のあたりでわたしは胸が痛むのを感じた。そうなんだよ、もし結婚できても近藤課長と同じ理由で上手くいかなくなりそうで。
「鶴谷課長はなんか最近変わったことありました?」
斜め前の営業部員が当たり障りない話題を振ってきた。変わったことといえば。
「ああ、マンション買おうかどうしようか迷ってるとこですねー」
あえてシングル向けとは言わないが。
「マンションですか。僕も今頭金貯めてるところなんですよね。会社の近くですか?」
「それがまだちょっとどこがいいか迷ってて。駅に近ければどこでもいいんですけど」
会社の近くって。何か、それ会社に人生捧げてるみたいで、なんかなー。
「ペット飼いたいんですよね」
「ああー解ります」
解るって言うけども、嫁も子供もいる君にはペットの存在の本当の大きさは解らんだろう……。などと卑屈なことを思う。駄目だ駄目だ、もっと前向きにならなくては。
そのとき、がちゃんと食器の触れ合う音がして悲鳴が上がった。
思わず振り返る。
どうやらビールのジョッキを倒した者がいるようだった。
「大丈夫?」
ついつい声を掛けると、斜め後ろにいた近藤課長がこちらを見た。
「大丈夫ですよ」
「そう。割れてませんか?」
「なんとか」
会話はそれだけで、お互い自分のテーブルに向き直ろうとした瞬間、わたしの視界をあるものが掠めた。
傷痕だった。
近藤課長のこめかみ辺り、生え際に近いところに、傷痕。わたしはぎくりとする。
キヨフミ君の傷と――同じところだ。
「鶴谷課長?」
同じテーブルの社員が不思議そうにわたしを見ていた。ぼうっとしていたのだろう。
「ああ、うん。何でもない……」
まさか。そんな偶然が。
わたしはぐっとビールを煽って、店員にお替わりをお願いした。
三センチヒールで助かったーっ。
飲みすぎたらしく、わたしは思いのほかふらふらになってしまった。
二次会までは出てからマンションに帰り着いて、わたしはふとあの傷跡のことを思い出した。まさかね。そんなわけないよね。社内用の名刺ケースは家に置いてある。恐る恐る、それを本棚から取り出した。
一番最近の名刺。近藤課長のものがファイルされている。
そこに書いてあった文字。
『近藤 聖史』
うわああああああ。
これ、キヨフミとも読めるよね? むしろ、セイシかキヨフミかの二択だよね?
まじかよーーっ。
これからどんな顔して近藤課長に会えばいいのさ! いや、別に何ということもないんだけど!
同僚かー。
幼稚園時代知ってるって結構ディープだぞ。向こうが覚えてればの話だけど。
わたしはもちろん覚えてるんだけど!
とにかく、幼稚園でキヨフミ君に傷が残ってるかどうか確かめよう。
残っていたら? いや、やっぱり別に何ということもないんだけど!
あっそうだ、カブトムシ。
おさらいしとかなきゃ。
検索結果は持っていけないぞっと。
シャワーを浴びるのが面倒で、メイクだけ落としてわたしは布団に入った。
カブトムシ、ちゃんと飼育するぞ。
せっかく男の子からもらったプレゼントだもの。
近藤課長がキヨフミ君であろうとなかろうと、これだけはしっかりしておかねば。
ジリリリリリリリリ。
目覚まし時計が鳴りだした。ちょうど眠りが浅くなっていたわたしの心臓は跳ね上がり、慌ててベルを止める。
時間はいつも通り五時台。でも今日は会社休みだから、もっと寝ていられる。携帯のアラームは九時に設定してある。
あと四時間ゆっくりしよう――そこまで考えてから、わたしははっとした。
あれ?
今日、幼稚園時代、過ごしてなくないですか?
週休二日制の頃じゃなかったから、幼稚園は午前中あるはず。
あれ?
どういうこと?
一旦起き上がった身体をまたぬるい布団に押し付ける。
だが眠れない。
ああ……何かの間違いかも。
わたしはいつの間にか、幼稚園時代があることを当然のように思っていたことに気付く。
突然始まったのと同じように、突然終わってもおかしくないのに。
何故か不安が広がる。
このまままた幼稚園に戻れなかったら。
――戻れなかったら何だというのだ。
何もなかった日常に帰るだけじゃないか。
でも、……それはちょっと、寂しい気がした。
ウィンナーとほうれん草入りのオムレツ、カップスープと、ジャムトーストにコーヒー。
ひとまずこんなところでいい。
午前の間だけでも布団を干し、いつもより豪華な朝ご飯を作る。
お母さんがわたしにしてくれたほどでなくてもいい。
自分に少しでいい、愛情を注いでやるのだ。
空っぽな自分でなくなるために。
朝ご飯の前に簡単に掃除もしたし、溜まりかけていたごみも捨ててきた。
隣にうるさくないように小さめの音量で音楽なんかかけたりして。
そうすると、まあ驚いたことに気分が全然違うのだ。
徒歩五分のスーパーまで玉ねぎと人参とじゃがいもを買いに行って、お昼はポトフでも作るか。
おお、なんかあれみたいじゃない? リア充。
三十八にもなってリア充もへったくれもないもんだけど。
普通の人は当たり前にやっていることを、わたしはやっていなかったのだ。
仕事が忙しかったなんて言い訳だ。お母さんはフルタイムの兼業主婦だったけど、ちゃんと主婦業もやっていた。
要するに自分を甘やかしすぎたのだ。そりゃ縁遠くもなる。
これから縁を呼び戻そうとか言うのではないけれども、例えばマンションを買って住み始めたとき、充実している、と言えるようになりたいのだ。
家事を人並みにこなすことはその第一歩だ。
完璧でなくていい。秀でてなくていい。
ただ行おうとすればいい。
オリンピックじゃないけれど、『やることに意義がある』のだ。
下手でいいじゃないか。
一人暮らしを始めたばかりの頃を思い出せ。
何にも出来なかったけど、少なくとも努力はしてたじゃないか。
わたしは年齢だけはおとなになって、その実ないものねだりのこどもだったのだ。
幼稚園児と一緒。
だからきっと、神様が(いるのならば)見せてくれたのだ。
欲しいものを手に入れるための夢を。
さて、わたしにはしなければならないことが二つある。
一つは……、これは、実家に帰って調べてみなければいけないだろう。
なにせ、幼稚園の頃に貰ってきたカブトムシをどうしたかなんて、母は憶えていないだろうから。
「急に帰ってきたと思ったら家中ひっくり返して、あんた何してるの?」
母は呆れて、目的のものを見つけたわたしにお茶を出してくれた。
「もう見つかったよ」
「見つかったって、何?」
新幹線で半時間。バスで二十分。徒歩十分。創立記念で明日が休みになったので、早速二年ぶりに実家に帰ってきたのだ。
母の語尾はもう伸びていないし、そんなにご機嫌でもない。あの当時は朝からギスギスしたくなくてあえて機嫌よく振舞っていたのだろう。頭の下がる思いである。
「これ」
わたしが見つけたのは古いキャラクター物の自由帳と、幼稚園の連絡帳だった。
「やだ、懐かしい」
随分歳をとった母が、一瞬幼稚園児のママの顔になった。
「あんた幼稚園のとき、急に大人しくなっちゃったことがあるのよ。すぐ落ち着きのない子に戻ったけど」
どきりとする。
「それって、保育参観の前くらい?」
「うーん、言われてみればそんな気もするけど。あんた憶えてるの?」
憶えている。というか、こないだ追体験したばかりだ。ありありと鮮明に。
「キヨフミ君って子と一緒に遊具倉庫に閉じ込められたときのことでしょう」
「あら。よく名前まで憶えてたわね。あの子、怪我したのよね。あんたが何かやらかしたと思って肝が冷えたわよ」
失礼な。自爆で怪我することはあっても、相手に怪我させたことは多分、ない。
がらがらと玄関の引き戸の開く音がした。
「あ、清美ちゃん帰ってきたわ」
続いてリビングの戸が開き、パートから戻った兄嫁がひょいと顔を出した。
「――詩織ちゃん。帰ってきてたの?」
瞬間的に戸惑いを見せたのをわたしは見逃さなかった。いきなり嫁き遅れの小姑が帰ってきたんじゃ、清美さんも困ろうというものだ。
「あ、清美さん気にしないで。晩ご飯は友達と食べに行くから」
もちろん由香のことである。一応新幹線で電話をしたら一も二もなく飛びついてきたのだ。
「……そう。明日帰るの?」
「うん。物置になってる部屋で寝るから寝床も心配しないで」
精一杯の気遣いは次の言葉で打ち砕かれた。
「ああ……あの部屋、雄太の部屋にしちゃったの」
何てこったい。
「じゃあここで寝る」
実家に帰ってリビングで寝るというのもしょっぱい話だが、仕方ない。
「そういうわけにもいかないから。涼介さんにリビングで寝てもらって、雄太の部屋で寝ればいいわ」
わたしは清美さんの心遣いに頭を下げる。
「ほんっとごめんなさい……」
雄太も大きくなったのだからいつまでも親と同じ部屋というわけにはいかない。甥っ子の年齢を失念していたのは痛い。
やっぱりわたしはやることなすことどっか抜けているのだ。
その度に回りに迷惑をかけている。よく皆我慢してるな。
「ちょうど雄太くらいのときのことを話してたとこなのよ」
母の言葉に、清美さんの顔がピシッと強張った。
15:29 2015/01/07
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