それにしても、保育士の先生というのはタフな仕事だと思う。
 走り回る子供たちに目を配りつつすべての連絡帳に目を通し、喧嘩の仲裁をし、子供たちが持ってくる虫(時には蛇!)を褒め、子供一人ひとりに偏りがないようよく観察しなければならない。
 当の園児だった頃は解らなかったことだ。園児にとっては一対一だが、保育士にとっては多対一である。半端な覚悟では勤まらないのではないだろうか。特に、虫のくだり。

 わたしはというと、別段体調を悪化させることもなく、今月の保育参観に向けて発表の準備をしていた。問題は、わたしの微かな記憶によると、当日母は来られないということだ。確か、インフルエンザに罹ったのだ。そんな未来を露知らず――いや知ってるけど、わたしは画用紙に『お嫁さん』の絵を描く。勿論、うまく描けない。でもそれはそれでいい。幼稚園児が妙に上手い絵描いてても不気味だし。
「しおりちゃんは大きくなったらなんになるの?」
「およめさん!」
 そう、別に相手に伝わらなくてもいいのだ。泣いてなんかないやい。
「由香ちゃんはお花屋さん?」
「うん!」
 相変わらず由香は手先が器用である。わたしにも女の子と花が一緒に描いてあるのが判る。
 余談だが、のちに由香は実際花屋さんで働くこととなる。そしてそこで出会った人と結婚するのだ。夢が叶うというと大げさかもしれないが、少なくとも目標達成した上に幸せまで掴んでいるのだから羨ましいものだ。と、それをお絵描きしている現在の由香は知る由もない。
「しおりちゃんはだれのおよめさんになるの?」
 えっ。えっ? 誰って? ちょっと今の質問クリティカルヒットなんですけど。
「うーん、だれがいいかなあ」
 などと言ってお茶を濁す。
「ゆうすけくん? だいきくん? きよふみくん?」
 そんなにいっぱい候補居るのかよ! 気が多すぎだろ幼稚園児のわたし!
 しかし三十八歳のわたしが中身になってしまったことにより、それまでの記憶を持たないわたしにはユウスケ君ともダイキ君ともキヨフミ君とも関係性が分からない。必殺『おとうさん』を発動するか……? いやもし「おとうさんとはけっこんできないんだよ」とか言われたら詰む。
 そこでチャイムが鳴った。セーフ。
「おべんとうのおいしい子かな」
 由香に聞こえるか聞こえないかの大きさで、わたしはそっと呟いた。ぶっちゃけ、食欲が勝った。
 でも、お弁当のおかず交換はしなかった。今日のお弁当はわたしの大好きな豚の竜田揚げだったからである。誰が交換などするものか。母が作る豚の竜田揚げは、わたしが食べやすいように少し小さめに作ってある。その分味がやや濃い目になっており、竜田揚げを白いご飯を一緒に口に含むと……、嗚呼、幸せ。園児の口は小さいので、思うようにご飯と竜田揚げが入らないのが困りものだ。それでも美味しい! 


 昼休み。
 お昼ご飯を満喫したわたしは、思いっきりブランコを漕いでいた。
 高く、高く。
 そのまま飛び立てるのではないかという浮遊感。
 ブランコがこんなに楽しいものだったなんて!
 しかしさすが人気遊具。順番待ちが出来ている。どんな人気アトラクションだよ。
 一頻り遊んだわたしは次の子にブランコを譲り、遊びに入れてもらえそうなグループを探す。
 ちょうどよく、一人の園児が名乗りを上げた。
「かっくれんぼすーるひーとこーのゆーびとーまれ!」
 これ集まらないと辛いんだよなあ……とか思いつつ、
「はーあーい!」
 わたしは園児、ショウタ君の指を握るべく駆け寄った。
 他にも何人かが集まってきて、ショウタ君の指にとまる。よかったな、ショウタ君。
 じゃんけんにより、鬼はサツキちゃんということになった。サツキちゃんが数を数え始め、鬼以外のメンバーはめいめいに隠れるところを探しに走り出した。当然わたしもである。わたしは遊具倉庫に向かう。
 倉庫の扉は重いため常に開いており、かくれんぼに最適だ。
 わたしは辺りを見回し、窓のすぐ横に最上段がずれた跳び箱を見つける。しかし、跳び箱の中は案外狭そうだし、最上段は重いので、もし出られなくなったら困る。そこで、わたしはガラクタに掛けてあったビニールシートに潜り込んむことにした。
 それにしても、わたしは園児を満喫しすぎである。クラスの子のほとんどの名前をもう覚えてしまったし、他愛無いことで遊ぶのが本当に楽しい。でも、『これ』はいつまで続くんだろう。『これ』がわたしの意識の下で行われている、脳の活動によるものであることは間違いないだろう。クラスの子の名前も思い出したか、あるいは勝手に想像したものに違いない。つまり、わたしが死んだら幼稚園生活も終わり。一緒に死ぬ。強くてニューゲームなんてありえない。普通に考えたらそうだ。

 暖かな春の日差しが、鉄格子の窓越しに降り注ぐ。それはシートを温め、ひいてはわたしを温めた。ガラクタにもたれかかったわたしは、ふわふわした変な気分になっていた。ああ……そうだ。今日ちょっと熱があったんだっけ……。「もういいかい」の声は聞こえない。体育座りをしたまま、少し冷えるお尻を気にしながらも、わたしはうとうとし始めていた。かくん。頭が落ちる。
「うん……」
 わたしは諦めて、膝に乗せた腕に顔を預けた。


 バッ、と布団を捲った。
 暑かったのだ。
 じっとりと寝汗をかいた身体がもどかしい。
 布団の、体温が移っていない部分を探して、わたしは寝返りを打った。
 携帯を見ると、午前三時ちょうど――、なるほど、途中で寝るとこうなるか。
 幼稚園ごっこには最後まで付き合うしかないらしい。
 枕元のペットボトルから水を飲んで、わたしは冷えてきた身体をまた布団に突っ込んだ。


 がらがらがら、がしゃん。
 がちゃり。
 大きな物音がして、ぱちりと目が開く。
 おはようこっちのわたし。
 今までより頭がぼんやりする。熱が上がってきているのだろうか。
 それより、さっきの物音はなんだろう。
 お昼休みはまだ続いているのだろうか。皆帰ってましたとか、そんなわけないよね。
 一応かくれんぼなので、そうっとシートの端を捲る。誰かが入ってきた様子はない。しかし、何かおかしい。音が遠いのだ。熱のせい? どうだろう。
 と、どこかですすり泣く声が聞こえた。
 わたしはガラクタシートから抜け出す。マスクでくぐもった声で呼びかけた。
「だれかいるの?」
 答えは大きく鼻を啜る音だった。だけどそれで場所が判った。跳び箱の中だ。
「……しおりちゃん?」
 跳び箱の中から聞こえてきたこの声は。
「キヨフミくん?」
「うん……」
 キヨフミ君もかくれんぼに参加していたはずだ。それでこんなところにいるのか。わたしが避けた跳び箱をチョイスするとは、なかなかやるな。ご丁寧に蓋までしちゃって。
「どうしたの?」
「か、かぎ」
「かぎ?」
 鍵? ああ!
 よく見れば遊具倉庫の扉が閉まっている。さっきの物音は、扉が閉められ、鍵が掛かった音だったのだ。
「でられなく、なっちゃった……ヒック」
 ははあ。なるほどな。良くも悪くも昔の田舎の幼稚園、こういうこともあるだろう。
「だいじょうぶだよ」
 『大丈夫だよ』は今日三回目だ。席に空きがあることで、先生はすぐ、わたしたちが居ないことに気付くだろう。よしんばそれを見落としたとしても、連絡帳を渡すときに今日の登園者との齟齬があることが判る。
 あとは、遊具倉庫にいるのだということに気付いてもらえればいい。その手段は、ここにもある。窓だ。 跳び箱の横にあるマットの、ちょうど上の窓から、隣の農園が見える。近いところで農機の音がするから、誰かいるはずだ。
「キヨフミくん、ちょっとそのままでいて」
 キヨフミ君は多分、ずれた跳び箱の隙間から入り、跳び箱の一部を支点にして最小限の力で上を蓋したのだろう。子供の力で持ち上げられるかは判らないが、大人を呼んだほうが怪我などもしないだろうというのがわたしの判断だった。
「どうするの?」
「いいから」
 体操マットの上によじ登り、窓の鍵を開ける。鉄格子の影が凹凸ガラスに映っていた。しばらく開けていなかったのか、窓ガラスは園児の力ではびくともしない。
 跳び箱がガタンと動いた。外に出ようとしているのだ。やめとけばいいのに――と思う間もなく、「いたっ!」という声が聞こえた。持ち上げきれずにどこか打ったのだろう。
「ちがでた」
「えっ」
 あーあ。だからそのままって言ったのに。わたしは付けていたガーゼマスクを外し、段の隙間から跳び箱の中に押し込んだ。
「これで押さえて」
 ハンカチはお昼前に手を洗ったときにずぶ濡れになってしまっていたからだ。そのハンカチよりは、咳などしていないマスクのほうが清潔というものだろう。さて、怪我人が出てしまった以上、早く脱出しなくては。
 窓はなかなか動かない。それでも、何度も力を込めているうちに、軋みながらようやく窓は開いた。
 錆の浮いた鉄格子の向こうに、つばの広い農作業用の帽子を被った女性がいて、畑の片隅を耕している。
「あのー!」
 だめだ。農機の音にかき消されて声が届かない。
「すみませーん!」
 もっと駄目だ。あっちを向いてしまった。このまま行ってしまわれてはかなり時間のロスになる。
 わたしは張り裂けんばかりに叫んだ。
「おばさーーん!」
 女性の手が止まる。農機(何という名称かは知らない)のスイッチを切り、きょろきょろと辺りを見回す。
「ここでーす! ここー!」
 わたしの声に女性が振り向き、「あらまあ、こんにちは」とのん気な挨拶をした。いえ、遊んでるんじゃないんです。
「あのー、とじこめられちゃったんです! せんせいに言いにいってもらえませんか?」
「あら!」
 そりゃ大変、と、女性は正門に回って行った。
 南京錠が解錠される音がして、次いで滑りの悪い引き戸がガラガラと開く。園長先生が「まあまあ、こんなところに」と入ってきた。
「あの、あと、とびばこのなかにキヨフミくんがいるの」
 言い終えたところで、目頭が熱くなった。ああ、安心したのだ――、子供って、すぐ泣くから。
 園長先生が跳び箱の最上段をどかし、中に居たキヨフミ君を抱え上げる。キヨフミ君も泣いていた。彼の頭からは少し血が流れていた。
「よしよし、もう平気だからね」
 園長先生のエプロンで顔を拭かれ、わたしは頷いた。ええい。泣き止め自分。ハナが出るだろ。
 保育園の先生はタフな仕事だ。こんな、子供の遊び方にも気を配らなくてはいけないのだから。
 事の顛末は親にも伝わったらしい。
「ちゃんと丁寧にお願いできたんだってね! 偉かったね〜♪」
 と、母にはめちゃめちゃ褒められた。
 ついでに、晩御飯もハンバーグの大盤振る舞いだった。やったね。


 翌日。
 もう何が翌日なんだかわけが分からないが、とにかく遊具倉庫騒動の次の日。
 お昼休みのわたしはクヌギにもたれかかって思案していた。
 こっちで目が覚める前のわたしはいつも通り仕事をして、いつも通り夕飯を食べ、いつも通りちょっとネットをしてからお風呂に入って寝た。いつもと違っていたのは、布団乾燥機を検索していたことだ。
 わたしの住む賃貸マンションは若干日当たりがよろしくなくて、布団や洗濯物を干しても午前中のうちに翳ってしまうのだ。ふかふかの布団を求めるなら、乾燥機のほうがいいかもしれない。ただそうすると収納的にちょっと手狭な気がしないでもない。
 昨日……いや一昨日見た新聞広告が頭をよぎる。
 もういっそ、買っちゃうか? シングル向けマンション。頭金くらいなら、ありますのよ。
「しおりちゃん?」
 頭にガーゼを貼ったキヨフミくんが近寄ってきた。
「キヨフミくん、だいじょうぶだった?」
「うん、ありがとう。これ、あげる」
 そう言ってキヨフミ君が差し出したのは、白くて、大きくて、太くて、丸まった、よ、よ、よ、幼虫、だった。
「いいの!?」
 何喜んでんだよわたし! 幼虫だぞ幼虫! カブトムシの!
「うん。おかあさんが、きのうのお礼しろって」
「ありがとう!」
 あーっ。カブトムシでテンション上がるあたり、本当に子供って簡単……いや、厄介だな!
 わたしは先生に箱と土を貰い、それを飼育することにした。
 帰りはバスに揺られ、幼虫の入った土を眺める。
 うふふ、貰っちゃった。
 年中さんの男児にとって、カブトムシの贈り物なんて最大の敬意に違いない。
 飼い方は――、現実世界で起きたら、ネットで調べよう。











18:31 2014/12/26


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