ああ、布団ってなんてふわふわであったかいんだろう。
 まるで雲の上に居るみたい――

 ピ。

 わたしの指が携帯電話のアラームを黙らせた。
 同時にわたしは半身を起こし、今鳴り止ませたばかりの携帯を引っ掴んで時刻を確かめる。
 午前五時三十分。危ない、寝過ごすとこだった。
 コーヒーを啜りつつ、トーストが焼けるのを待つ。


 しかし――、やっぱり、夢だったか。

 死ぬほどリアルだったんだけどな。
 あのあと、自分ちに帰ってお母さんに一日の報告をして。
 おやつはチョコボール、夕飯は肉じゃがで。
 猫と遊んで。
 お母さんとお風呂に入って。
 ふかふかの布団でおやすみなさい。


 で、起きたらこれだ。

 昨日(昨日?)の朝食が懐かしいし、過去のわたしがうらやましい。
 待ち受けの猫の写真を眺める。
 ゆうべ(ゆうべ?)遊んだ猫のものではなく、よく似た二代目猫・ジロウだ。わたしが一人暮らしを始めてから実家で飼い始めた猫なので、ほとんどわたしとは接点がない。たまに実家に帰っても、「なんか知らない人がいる」という雑な扱いである。
 ペット禁止のマンションでなければわたしも飼っていたのだが。
 数年前由香に「独身女がペットを買い始めると婚期が遠のく」と驚かされて以来、ペット可の物件に引っ越す気にもならない。まあ、飼ってなくてもこうして独身生活絶賛継続中なわけですが。

 電車に揺られ、欠伸をかみ殺しながら携帯を弄る。特に目立つような大きなニュースはない。
 ふと目の前に座っているサラリーマンが広げた新聞に目が行った。下半分が住宅の広告になっている。シングル向け分譲マンションの案内だ……。ウッやめてっ。駅チカ、ペット可、全戸角部屋。わたしを誘惑する幾つかの言葉。
 貯金ある程度持ってるし、買いたくなってしまう。
 でも――、でも、マンションなんか買ったところで、肝心の住人がこんな空っぽじゃあ、つまらない……。
 今日食べた朝食、トーストとコーヒー。お昼ご飯はおにぎりセットとワンタンスープの予定。晩は……、パスタ茹でるだけ。多分。
 布団、しばらく干してない。
 休日を費やすような趣味もない。
 空いた時間は、寝てるかちょっとだけ小説を読むかネットしてる。
 友人は大抵家庭を持っていて、遊ぶ相手もいない。
 で、動物は好きだけどマンションはペット不可。
 何の生き甲斐もない、つまらない女。

 本当はとっくに気付いていたのだ。
 美味しいご飯も。
 ふかふかの布団も。
 それをそうする人がいるから、そこにあるんだということ。
 愛情を温かいお布団に、美味しいご飯に、ぴかぴかのシャツに変換して。
 愛情があるから、そうできるんだということに。
 自分自身に対する愛情を注ぐことさえしないで、それが与えられるわけがない。
 じゃあ、どうするか。
 まずは――、ふかふかの、雲のようなお布団だ。


 会社に着く。女子社員が増えたおかげで新設されたロッカーにコートと私物を置いて建屋に入ると、なにやら一部女子社員が騒いでいるのが見えた。
 受付なんて洒落たもののない我が社では、タイムカードを捺したあたりですでにその様子が見て取れる。
「何してるの?」
「あっ、鶴谷課長」
「えーっと、そのう」
 気まずそうな女子社員たちが覗いていた衝立の向こう側には営業本部などがある。
「ああ」
 わたしは察した。きっと、身内に不幸があったとかで遅れていた、新しい営業課長の初出社があったのだ。確か大阪支社からの転勤だと聞いている。
「ほどほどにね」
 一応、釘を刺す。
 ええ、興味がないとは言いません。でも二十代半ばくらいの子達に混じって「どこどこ〜?」なんてやる勇気はございません。でも女の子が騒ぐくらいだから、顔はイイのか。
 販売促進課の、所謂お誕生日席がわたしの指定席だ。まだ業務開始時間にはなっていない。買ってきたコーヒーに口をつけていると、
「あ、鶴谷君」
 社長が顔を出した。
「おはようございます、社長」
「おはよ。あのね、新しい営業課長が来たから、一応挨拶だけ、ね。三十八歳同い年! 仲良くしてやって!」
「はあ」
 間の抜けた返事をしてしまった。社長の口調は常に非常にマイペースで、こっちもついついつられてしまうのだ。あとで営業部のほうではちゃんとした挨拶があるのだろう。社長の後ろから、ぬっと人影が現れた。
「どうも」
 背は低いほうじゃない、と最初に感じた。ただちょっと猫背なのだ。ほんとに営業職か? ……顔はまあ、たしかに女子社員が騒ぐだけあって悪くない。年齢を差し引いてもそこそこで通用しよう。イケメンかと言われると微妙だが、声はいい。低すぎず高すぎず、営業に向いていそうだと言えよう。しかし、どこか腑に落ちない感じがする。
「営業課長の辞令を頂きました、近藤です。よろしく」
 喋り方もいい。いや、そうじゃなくて。 
「販売促進課の鶴谷です。よろしくお願いします。あの……」
「はい?」
 近藤課長が片眉を上げる。
 あ、前髪がちょっと長いのが違和感あるのかな。いや違う。この感じ。
「以前、どこかでお会いしました?」
 思わず尋ねたわたしを一瞬ぽかんと見て、近藤課長は笑った。目尻に皺が浮かぶ。
「さあ。僕は覚えてないですね」
「そうですか。失礼しました」
 名刺を交換して、席に戻る。コンビニのドリップコーヒーをまた啜っていると、女子社員が一人やって来た。
「課長、やりますねえ」
「へ?」
「だってナンパの手口じゃないですかあれ。もっと押しちゃえばよかったのに」
 コーヒーを吹き出しそうになる。鼻の奥に入って痛い。咳き込むわたしにお構いなしに、女子は続ける。
「絶対どっかで会ったことある、あ、芸能人の誰々に似てるんだ! なんて言っちゃうとか」
「わたし誰々好きなんですよ〜って言っちゃうとか」
 女子一人追加。
「せっかくだから今度二人で飲みに行きましょうよ〜とか」
 もう一人追加。
「あ……、あのね〜、」
 別にわたしそんなんじゃなくて、ただ純粋にほんとにどっかで見たことあるなって思っただけで。と言おうと思ったとたんに始業のベルが鳴った。部下たちはそそくさと自席に戻っていく。それにしても、若い子ってぐいぐい来るな。怖い怖い。
 そう思いながら、わたしはメールチェックを始めた。

 そんな今日は飲み会だった。
 営業課長の歓迎会は週末にある。つまりこれは、前哨戦。
 ごく少数、社長のお気に入りと社歴の長い社員だけを集めた懇親会である。
 社長の挨拶は短いし、社長自らが取り仕切る飲み会は嫌いではない。下戸というほどではないものの、社長がそんなに飲めないために長引かないのだ。いつも「明日も一日頑張りましょう、じゃ乾杯っ」で始まる飲み会は、二時間か三時間程度でお開きになるのが常である。
 でもそんな社長にもちょっと愚痴を言いたいときもある。なんで、今日参加の女性社員、わたしだけなんですかね。若い社長が立ち上げた会社だけあって役員も若いが、正直話が合う人がおらん。困った。
 件の営業課長は……早くも皆に馴染んでいる。さすが営業。と、営業部長がかすかに赤らんだ顔で「鶴谷君はそろそろ良い相手見つかった?」などと訊いてきた。部長。それ、禁句です。
「いやあ、なかなかいないですねえ。それよりお子さん今年中学生でしたっけ」
「そうそう。制服がまだぶかぶかでさあ。まだ背が伸びるだろうからって大きいサイズ買ったみたいなんだよね。カミさんに任してたんだけど」
 上手く話題を逸らせたようだ。「中間テストで平均以下だったら塾に入れるって脅してあるんだ」と言う営業部長はそれでも子煩悩である。一頻り子供の話をすると、
「こないだまで幼稚園児で、こーんなちっちゃかったのになあ。早いモンだよ」
 ビールジョッキを指差した。いや、小さすぎでしょそれ。
 いい感じに酔いが回ってきた頃、わたしは腕時計を見た。お開きまであと半時間と言ったところだ。
「このあと何か予定でもあるんですか?」
「えっ」
 このメンバーでわたしに敬語を使う人間などただ一人。そう、近藤営業課長その人である。
「ああ、いえ。特には」
「そうですか。本社では飲み会、多いんですか?」
「うーん……そうでもないかな」
「へえ」
 いつの間にか、彼の手にはお猪口が握られていた。ワインやウィスキーではなく、日本酒党らしい。
「いつもあんなこと言ってるんですか?」
「あんなことって言うと……」
「『会ったことがある』、なんて」
「ふはっ」
 わたしは思わず吹き出した。
「まさか」
 近藤課長がにっと口角を上げる。
「やっと笑った」
 へ。
「わたし、笑ってませんでした?」
「笑ってませんでした」
 ……らしい。痛いところ突いてくるな。
「最近何かハマってることってあります?」
「最近ですか……えーっと」
 別にない。でも大学生じゃあるまいしそんな答えは言えない。
 少し酔いが回ってきた。
「最近というか、これからハマりたいことなら」
「ハマりたいこと?」
「はい」
 わたしは夢想する。
「ふかふかで温かい、雲みたいなお布団です」


 一体わたしは何を言ってるんだろう。
 マンションに帰って、シャワーを浴びて牛乳を飲んだら酔いが醒め、冷静になった。
 「ふかふかのお布団にハマりたい」って。
 あれではまるで「寝ることが趣味です」と言っているようなものだ。たしかに休みの日はごろごろしていることが多いが、それにしたって趣味というほどではない。第一睡眠が趣味なんて聞いたことがない。
 「お会いしたことありませんか」に次ぐ、恥の上塗りだ。
 ああ恥ずかしい。救いといえば、他にあのヌケサクな発言を聞いていた人が居ないということくらいか。
 わたしはまだ冷える春の夜のため靴下を履き、布団に潜り込んだ。綿布団は最初冷える。ぶるっと震えて、敷き毛布の上に丸まった。
 ほのかに残ったお酒が心地よく、わたしは静かに眠りに落ちていった。



「ほら早く起きないと、バス行っちゃうよ!」
 母の声で、わたしは飛び起きた。バス行っちゃうイコール幼稚園に行けない。そいつはかなりの重大事件だ。
 あれっ?
 あたりを窺う。実家だ。新品の姿見もある。そこに映る自分は幼い。
 えーーー! また幼稚園の夢だよ!!
 一人で突っ込んで、わたしはパジャマを脱ぎ、枕元に置いてある今日の分の服を着た。ヒヤッと冷たい。寒気が頭のてっぺんまで走っていった。
 夢だと思っているのに、もう一度寝ればいいはずなのに、そうできない。きっとまた起こされてしまうし、今日の声の様子から母はあまり余裕がないようだ。雷が落ちてもよろしくない。開きっぱなしになっていた子供部屋のドアから母が顔を出した。
「あら、お着替え終わってるのね。ご飯出来てるから、食べちゃおうね」
「はーい」
 昨日より少し声が低い。わずかに頭も重い。あ、昨日飲み会だったからか。ってそんなわけあるか。
 案の定、熱を測ると三十六度九分。微妙すぎる微熱だ。
「風邪かな〜」
 ちょっと困ったように母が言った。園を休むほどの熱ではない。
「だいじょうぶだよ?」
「本当? 具合悪くなったら?」 
「せんせいにゆう」
「よろしい」
 一応マスクをつけて、わたしは送り出された。

「しおりちゃん、かぜー?」
 由香が心配そうに覗き込んでくる。
 風邪というものは非日常である。わたしは比較的丈夫な子供だったので、特にそう感じる。そして、子供は非日常が大好きだ。
「うん」
「だいじょうぶー?」
「だいじょうぶだよ」
 先ほど母にしたのと同じ言葉で返答する。この頃の「大丈夫?」は、よほどの容態でない限りは本気で心配しているというよりも、おままごとの延長のようなものだ。わたしはわくわくしていた。今現在、ちょっと非日常なので。
 連絡帳を取り出す。さっき思い出したが、紛失防止のため本当はバス内で取り出してはいけないルールなのだが。
「出しちゃいけないんだよ?」
「うん、ちょっとだけ」
 ちょっとだけ中を捲る。やはり、昨日のことが書かれていた。
 いつもと少し、様子が違うということ。
 子供には読めないはずの大人向けの字だが、今のわたしには難なく読める。
 そう、『昨日』。
 粘土遊びをして、磯部揚げを食べ、おままごと(犬)とドッヂボールをした日。
 『昨日』から、時間が連続しているのだ。
 これはやはり、ただの夢なんかじゃない。
 リアリティがあるのではない。
 下手をすると、現実(リアル)なのだ。

 もし――もし、今までの人生のほうが夢だったら。
 それは本当に喜んでいいことなんだろうか。

 『昨日』は夢だと思っていた。
 でも夢じゃないとしたら。
 今は昭和××年で、わたしは幼稚園児だとしたら。

 さっきまで大人だったわたしはどこへ行くのだろう。











21:19 2014/12/23


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