『あんたも、もういい歳なんだから。いつまでも独り身ってわけにはいかないでしょうが。そろそろ将来のこと考えないといけない歳なんだよ?』
 グサッ。
 わたしに三〇〇のダメージ。
 友人の声が受話器越しにわたしを急かす。
 わたしは足の爪を切りながら曖昧に答えた。
「ああ……うん」
『聴いてるの詩織?』
「聴いてるよ。わたし明日早いから」
 由香は回線の向こうではーっと溜め息を吐くと、更に攻撃を加えてきた。
『もう、いっつもそればっかり。仕事が忙しいのは結構だけど、このままだと本気でいかず後家よ、あんた』
 グサッ。
 わたしに三〇〇のダメージ。
 ……いかず後家って微妙に古くない?
「解ってるって。今度そっち帰ったらご飯でも奢るから、今日のところはこれまでにしてよ」
『旦那の許可が出たらね』
 仕方ないな、という風に、由香は声のトーンを少し下げた。
 内心は楽しみにしてる、というサインだ。
「そっちも大変だね」
 由香はわたしと違い、結婚して子供も居る。その子供の面倒を旦那さんに任せないと、出掛けられないというわけだ。
『もう小学生だからそんなに手は掛からないけどね』
 グサッ。
 痛恨の一撃。
 わたしに九九九のダメージ。
 わたしは死んでしまった。
「そっか、健吾君もうそんなに大きかったんだっけ」
 やっば。まだ幼児くらいの感覚だったわ。
 子供ってあっという間に大きくなるんだなー、怖いなー、って思っていると、
『そ。でも亜由美んとこなんか確かそろそろ中学生に……』
「あーっ。解った。解りましたから。寝かせてください! 寝ないと身体が保たないんです!」
 死者に鞭打つ由香の言葉を遮って、わたしは睡眠時間を確保するべくすっかり所帯じみたこの友人との通話を切った。そう、寝ないと次の日しんどいお年頃なのだ。
 最後に由香が言った言葉は、
「あたしもそろそろ仕事したいなあ。パートにでも出ようかな」
 ……だった。
 由香はお姑さんとの折り合いがよろしくなくて、たまにわたしを、こうやって母親のようにお説教して憂さを晴らすのだ。いい迷惑、と言い切れないのがまた問題だ。由香の言うことはまあ正論なのだから、

 鏡を見る。
 そこには紛れもない、三十八歳のわたしがいた。
 鶴谷詩織。
 昭和生まれの三十八歳。
 月収三十三万。
 課長。
 小さな会社だが、このまま順調に行くとまたわたしは昇進するだろう。
 風呂上りの、ファンデーションに隠されていない素肌が悲しい。
 いつの間にこんなにシミ、皺が増えたんだろう?
 別に結婚したくないわけじゃない。機会があれば死体、いやしたいと思って過ごしてきた。多分それがいけなかったのだ。機会があれば、なんて、一見前向きのようでその実『もうないでしょうけどね』の社交辞令用語だ。結果まったくもってわたしは機会とやらに恵まれることなくこの歳である。いい加減諦観が頭をよぎり始める。

 婚活の平均年齢って何歳なんだろう。どうでもいいことが気になってスマホを弄り、ざっと調べてみたが、大体三十代というアバウトな情報しか得られなかった。四十路に手が届きそうなわたしにはちょっとつらい現実。というか、今から婚活始めたところで引っかかるのは四十路を大きく越えて五十路とか、な気がする。せめて同じくらいの歳の男性が、それも性格が良くて家庭を支えられるような男性が運よく売れ残っていてくれれば……。
 夢を見すぎだろうか。
 家計は別に、わたしが支えてもちっとも構わないのだ。
 この歳だと子供が出来るかどうかも分からないし。地元の友達にも不妊治療してる子何人か居るし。
 そんなことを考えながら某大手婚活ネットワークサイトをチラッと見てみたら、入会費が十万円だった。
 えっ。高っ。
 そっかー。みんなそれほどまでに結婚したいものなのだね……それにしても、足元見すぎじゃないか?

 乾かした髪の隙間に白髪を二本発見する。ひい。
 さすがにこの歳になると「若白髪です」は通用しない。紛れもなく加齢の証拠品だ。
 手の甲には小さなシミ。これも老化現象か。やめてください。死んでしまいます。
 開き直って婚活してみたところで、拾ってくれる男性が居るだろうか、マイナス思考に落ち込む。
 『課長結婚してるの? え? してないんだ。仕事に生きるつもりなのかなー』なんて部下の噂話を小耳に挟んだこともある。それを昔はオールドミスと呼んだものなのだよ。若き諸君はこの言葉も知らないかもだけど。
 社長じきじきに『キミは結婚する気はあるの?』と面を向かって言われたこともある。それは新規販売ルートの立ち上げに関しての会議中で、そんなときに寿退社されてしまっては困る、という意味合いのものだったが。
 ちなみに、わたしは元気よく『ないです!』と返答した。
 元気よくっておかしいだろ。落ち込めよ。
 そんなこんなで、わたしは機会というものを拝めないままに暮らしている。

 朝起きたら、これが全部夢でありますように。
 苦労して手に入れたキャリアだが、若さには換えられない。タイム・イズ・マネー。と言うけれども、タイムのほうがより重要である。タイムはマネーになるが、マネーがタイムになったという話は寡聞にして知らない。や、わたしの知らないところではあるのかもしれないけど。
 嫌だなあ、明日会社に行くの。

 朝起きたら。高校生くらいに戻ってたらいいな。
 朝、起きたら。



「詩織ちゃん、詩織ちゃん。朝だよー♪」
 あ、お母さんの声だ。
「しおーりちゃん♪」
 なんてご機嫌なんだろう。
 声が弾んでいるのはなんでだろう。
 しかも、小さい子供を呼ぶみたいに『ちゃん』まで付けて。
 ああ、でもわたしまだ眠たいの。
 起こさないで。放っておいて。
 そう思っていると、突然冷たい手が頬に触れ、わたしは飛び上がった。実際には布団から一センチも浮き上がらなかったけど。
「ううん……」
「おはよう詩織ちゃん。よく眠れた?」
 わたしはくしくしと目をこする。
 ふんわりと石油ストーブが香る。
 あれ? 実家に帰ってきたんだっけ?
 ボーっとする頭で考えながら、目を開けると。
 お母さんが居た。
 でも、何かおかしい。
 ……有り体に言うと、若い。
 まだ二十代くらいに見える。
「ご飯出来てるよー」
 こ、声も若い。
 ちょっと待って。
 実家に帰ったはずはない。間違いなく今日は出社しないといけないんだから。由香にも言った。「明日早いから」って!
 つまり、これは夢だ。わたしは結論付けて、また布団に潜った。
 次に起きたときには午前五時二十分で、ちょっと冷え込む部屋でトーストを齧ったりニュースを見たりするはずだ。暖かい子供部屋は名残惜しいけど、長い夢を見るときは寝坊していることが多いのでしょうがない。グッバイ若き日の母よ。娘は仕事に行く。
 ところが、
「こらーっ、戻っちゃ駄目でしょー」
 母は笑いながら、わたしの布団を思いっきり剥いだ。
「悪い子には、お仕置きだぞー」
 なんですかそれ、と思う間もなく、母はわたしの脇腹を思うさまくすぐった。
「きゃはははははは」
 自分の口から妙に高い嬌声が漏れたのを聞いて、わたしは驚く。
 部屋の隅の姿見に映っているのは、紛れもなくわたし。ただし、五歳だか六歳だか、それくらいの。
 急に抵抗をやめたわたしを見て、母が心配そうに覗き込んだ。
「詩織ちゃーん? あ、鏡ね、新しくしたもんね」
 ……そうだ。思い出した。
 実家には古い姿見があって、あるときわたしと兄が遊んでいるときに割ってしまったのだ。
 「すごい音がしたんでびっくりして見に行ったら、アンタがガラスまみれで心臓が飛び出た」というのが、子供の頃の思い出話の定番だった。
 そうか、あれはこの頃のことだっけ。
 新しく買った姿見はもちろん新品で、白い枠がついている。今もこいつは実家にあるが、それとは比べ物にならないくらい、まだピカピカだ。

 朝ご飯はシュガーバタートースト(半分)、ほうれん草入り卵焼き、カリカリベーコン、それに温かい牛乳。……普段のわたしの朝食よりよほど人間らしい。トーストを頬張るとバターの香りが鼻に抜けた。
 こんな夢ならずっと続いて欲しい。哀れみの目で見られることもなく、親や友人に結婚をせっつかれることもなく、シミも皺もない!!
 テーブルの向かいに居た兄貴、涼介が朝食を食べ終え、毎日の戦闘ごっこで四年生にしてもはやボロボロになりつつあるランドセルを引っ掴んだ。
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい! 車に気をつけてね涼くん!」
「はーい!」
 どこか投げやりな返事が遠ざかりながら聞こえた。

 熱を測る。
 幼稚園に行く日はそれが日課になっている。わたしの平熱は子供の頃から今に至るまで三十六度七分で、いかにも平熱らしい平熱だ。
「ねえおかあさん」
「うーん?」
「いま、しょうわ何年?」
「昭和××年だよー」
 どうやらこの頃の母は語尾を延ばすのが癖らしい。
 そして、計算するとわたしは今、幼稚園の年中さんだということが判った。
 年中さんの頃って何があったっけ。全然覚えていない。三十年以上前だから当たり前っちゃ当たり前なんだけど。
 それにしてもリアルな夢だ。まだ覚めないし、五感もある。思ったとおりに身体が動く。
 年中クラスの子供が元号を言えたことに疑問を差し挟まないあたりが夢らしいなと思ったのだが、そうではなかった。
「熱は……ないね〜。今日は詩織ちゃん、やけにお姉さんじゃない?」
 単に普段と様子の違う娘を不審に思って気を取られていたのだ。
「そう?」
 夢の中のはずなのに、なんとなく気を使って首を傾げてみた。
 ほら、お姉さんぶってる子らしいでしょ、って感じで。
「可愛い〜!」
 案の定、母は顔をくしゃくしゃにして笑った。
 一先ず正解だったようだ。

 スモックを被せられ、名札を付けて、帽子を被る。
 お弁当の入った鞄を斜め掛けにしたら、あとはバス停まで歩いて三分だ。この道は後で通学路にもなったから、憶えている。まだ開いていない八百屋さんと小さなスーパーを横目に歩く。そういえば、この頃はコンビニって一般的じゃなかったな。少なくとも、自分の行動範囲では二十四時間営業の店舗は見たことがなかった。存在を認識したのは中学校に入ってからだったように思う。
 まったく便利な世の中に……、なってないのだ。まだここは。
「斉藤さん三木さん、おはようございますー」
「あら鶴谷さん、おはようございます」
「おはよう〜」
 バス停に着いたが、しまった。それぞれの子供の名前、何だっけ。サイトウさんとこは……お姉ちゃんがいて一緒に遊んでもらったことがあるから憶えてる。ミカちゃんだ。ミキさんとこが分からん。ミキ……ミキ、何だっけ。色素の薄い髪が特徴的なミカちゃんと、くりくりした目のミキさんとこの子(誰?)を前に、わたしはたじろいだ。
「おはようしおりちゃん」
「おはよう」
 ……思い出せない。夢の中なんだから間違えようと何だろうと気を遣わなくていいはずなのに、わたしは頑なに誤まることを拒んだ。結果、
「おはよう」
 すごーく無難な『名前を呼ばない』と言う選択肢を選んだのだった。

 幼稚園バスはすぐにやってきた。
 それまでに集まった子供たち合わせて五人。
 わたしは結局他の子の名前も曖昧なまま、「おはよう」だけで逃げおおせた。バスに乗り、親たちに手を振った後、途中の会話でサカイさんとこのコウタロウ君とシマダさんちのアイちゃんは判ったが、ミキさんとこの子が何という名前なのかがどうしても出てこない。ミキ……ミキ……誰ちゃんなんだよお前ー!
 
 バスに乗って驚いたのは座席の高さだ。実家の玄関がずっと広く感じたのもそうだったけど、座面が高い。園バスだしもしかしたら一般的なバスより低いのかもしれないけど。これが幼子の目線か。ちょっと勉強になるかもしれない。
 幼稚園につくまでの間、わたしは『お姉さんらしく』頬杖を突いて窓の外の景色を見ていた。葉桜に申し訳程度に残った花弁が、春風にそよいでいる。そうか。今は現実と同じく四月なんだ。変なところで設定が込んでいる。鞄から連絡帳を取り出し、日付を確認する。始業からそれほど経っていない。
 バスは次々に子供たちをピックアップして、幼稚園に向かう。
 かーわいいなあ。落ち着きがないなーみんな。わたしにもこんな頃が……、って今、なう、子供だわたし。子供なうって意味が分からんな。
 あ、由香発見。
 そういえば由香はこの頃からの筋金入りの腐れ縁だった。今はすっかりおばさんの様相を呈してきた由香も、まだ無垢で無邪気な天使のようだ。いい子だったよなあ。花の冠作ってくれたことは未だに忘れられないわ。わたしは不器用だったのでお返しできなかったけど。

 そんな思い出に浸るわたしを、園バスは無事幼稚園に送り届けてくれたのだった。

 え。
 いや。
 ちょっと待て。
 幼稚園児としての生活をスタートさせてしまってどうなる!?
 わたしには仕事が……仕事が……、あるんじゃないんですかっ!!

 早く!
 夢よ!
 覚めろ!

 覚めてください……お願いします……。









17:23 2014/12/18


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