男が一人、走っていた。
 無精髭を生やし帽子を深く被った男は、あまり小奇麗とは言いがたい格好の彼には明らかに不似合いな花柄の婦人用バッグを手に、人通りの少ない路地を走り、街並みを駆けてゆく。その背に罵倒を受けながら。誰がどう見ても、男は引ったくり犯だった。
 その男は常習犯だった。この街に住んで決して短いわけではないらしく、追っ手を振り切って迷うことなく通りを疾走し、路地を抜けて巧みに人混みに紛れてゆく。
 休息日の大通りは人で溢れている。男は追っ手を撒いたことを確認する。何ブロックも離れ通りを二本も渡ってしまえば、誰も男に目を留めなくなる。どこにでもいるようなありふれたごろつきにしか見えないはずだった。

 男は足を緩める。それでも早歩きで、周りに目を配りながら自分と獲物の無事を確かめた。
 が、彼は突然事前に予定していたルートを外れることを余儀なくされた。行く手に警邏の警官を見止めたためである。仕方なく男は引き返し、大通りに出ると違う横道を目指した。
 ところが、そこにも濃紺の制服が見えた。拙い、と男の直感が告げていた。引ったくりの情報は既に警察機関に共有されているのかもしれない。いつになく警官の数が多い。そんな中で目立つ女物のカミュドバッグを提げていては、疑ってくれと言っているようなものだ。一刻も早く人目に付かない場所に行き、中身だけを頂かなくては。
 建物と建物の間、飲食店の従業員とごみ収集業者以外は立ち入らない隙間に入り込む。さて一息つける。そう思った瞬間、またも官憲の姿が目に入った。あろうことか、汚い路地裏の向こう側からやって来る。
 こうなっては、もはや自分を追い詰めに掛かっているとしか思えなかった。
 男はきびすを返して逃げた。走りながら鞄のマグネット留めを外し、中に手を突っ込んで財布を探る。中身さえ奪ってしまえば、残りは捨ててしまって構わないのだ。

 しかしそうは巧くいかなかった。すり抜けに使おうと思っていた裏通りには、大人二人分以上の高さの壁が聳え立っていた。
「こんなところに壁なんてあったか……?」
 男は腹立ち紛れに呟いて、振り返った。
 別の逃走経路を探すために――、そして、動きが止まった。
 男のすぐ真後ろに、制帽を目深に被った警官が数名いた。
 また、黒い帽子、黒いフード付きマントを被った、やけに小柄な人物も。犯人捕縛の場に似つかわしくないその人物は、手に持った警棒を男に突き付けた。
「堪忍しましたか?」
 声色で、それが少女だと分かった。真っ黒なキャスケット帽を被り、左目を長い前髪で隠して警邏の先頭にいる。少女一人なら何とかなる、しかしその後ろに控える三人の警官まではどうにもならない。何と言っても警棒しか持っていない少女と違い、警官は拳銃を所持している。
 いくらなんでも、分が悪すぎた。


「お疲れ様でした、マルセル管理官」
 到着した応援の巡査長が、少女に声を掛けた。
「犯人が壁に手をつかなくて助かりました、カミュ巡査長」
 マルセルと呼ばれた少女ははにかんだ。黒い帽子、黒いマント、黒い服に黒髪と、全身黒ずくめの少女だ。
「壁……とは?」
 カミュが首を傾げる。そんなものあっただろうか、と言う風に。
「ああ」
 『マルセル管理官』が青い瞳を細めて小さく笑う。
「ぼくの魔法は『対象者』にしか効きませんからね。あなたたちには見えなかったでしょうが、さっきこの裏道は壁で塞がれていたのです。『犯人にとっては』ですが」
「なるほど」
 巡査長は得心して頷いた。
「『幻影』ですね。それで奴は何もない道を立ち往生していたわけだ」
「はい。それに、ぼくの後ろにも警察官の幻影を立たせていました。もし犯人が我が身を省みずにこちらに突っ込んできていたら、ぼくもちょっと危なかったかな」
 何でもないことのように少女は言う。
「マルセル管理官は火や氷を使って相手に対抗は出来ないのですか」
 カミュの問いかけに少女は首肯した。
「はい。ぼくら原始魔法使いは普通魔法を使えません。原始魔法は普通魔法の始祖、謂わば先祖返りのようなものですからね」
「犯人が魔法使いじゃなくて良かったですね」
「魔法使いだったら、引ったくりなんて効率の悪い犯罪に手を染めませんよ」
 若い管理官はカミュに答える。
「魔法使いを雇いたい人はごまんといますから。悪い稼業の人は、特に」


 捕り物が終わったあと、少女は行きつけの喫茶店に寄ることにした。パラソルが日を遮る店外席が目立つ、広い店だ。平日の午後、客はそれなりに入っている。
 名物のコーヒーとビスケットを注文して、少女は席に着いた。
 店内から平和な通りを眺めていると、少しして他の客が同じテーブルにやってきた。
「やあ、マルグリト」
 『彼』は気安く声を掛ける。
 異様なのは、それがいわゆる「ヒト」の姿をしていないことだった。狐面のような細い目に灰色の肌、ぴんと立った耳の下からはシルクのような飾り紐が生えている。黒い外套の下が空虚の空間であることを、マルセル――マルグリト・マルセルは知っている。
「あ、お師匠様の旦那様」
「ファレグでいいよ」
 彼はマルグリトの言った通り、彼女の魔法の師匠の夫にあたる。そして誰の目にも明らかなように、ファレグはヒトならざる者、魔物の一種族だった。
「ファレグ様、今日のお仕事は終わりですか?」
「うん。会議は早々に終わってしまったしね。君こそ、さぼっていていいのかな。マルセル一等魔法管理官殿」
「失礼な、休憩ですよ。さっきまでちゃんとお仕事してました。今も『眼球』をひとつ『飛ばし』て町中保安パトロールしてるんですからね」
 マルグリトはファレグに左手を見せる。眼球に見立て手のひらに埋め込まれた三つの魔石のうち、ひとつが赤い輝きを失っていた。
「『眼』の原始魔法か……。眼球を自在に操りそれがもたらす視界を把握、あるいは対象者に幻覚を見せる。原始魔法――人間が得た初期の魔法の中でも珍しいものだ。イリーナが君を見出したのもよく解るよ」
 イリーナ・ニコラエヴナ・カガロフスカヤ。マルグリトが師事した魔法使いで、ファレグの妻。
「……今日、お師匠様の命日ですよ」
 そして、五年前に命を落とした。
 ファレグは運ばれてきたコーヒーの匂いを嗅ぎ、首を振った。
「僕たち魔族には誰かが死んだ日を大事にするという習慣はないからね」
 魔法から生まれた生き物たちはきわめて冷淡である。魔族の中にあっても魔族を厭い、孤独を好む。人間に混じる者もいるが、少数である。

「君がイリーナの子供なら全力で大事にできるけど、自分の子供だったらと思うとおぞましいなんてものじゃないな」
 魔族は人間との交配手段を持たない。長い寿命を持ち、自分の命数を知るまで子供を得ることもない。
「……魔族の人って基本的に同族大嫌いですよね」
 それは例え自分の子であっても同様らしい。
「ファレグ様がお参りしてくれたら、お師匠様も喜ぶんじゃないかなあ」
「イリーナは死んでしまった。僕はイリーナの抜け殻には興味がない。お墓参りというものは君だけで行くといい。そこに彼女の魂はないけどね」
 ふー、とコーヒーの表面を吹いて冷ましながら、ファレグは皮肉たっぷりに言った。そして続ける。
「ところで、君は本当に彼女を殺した犯人を覚えていない?」
 マルグリトの肩が強張った。
「ぼくは」
 片手にビスケットを持ったまま、マルグリトはコーヒーの黒い水面を見つめる。
「ぼくは……確かにあの日、その場所にいました。それははっきり覚えています。あの日の天気も、風の強さも、最後にお師匠様と何を食べたかさえ。だけど、お師匠様を殺した犯人が誰なのか、顔も、背格好も何も思い出せないんです。一人だったのか、大勢だったのか。どうしてお師匠様が死んで僕が助かったのか。何にも」
 ぱき、と音がしてマルグリトの手の中でビスケットが砕け、皿の上に破片が散らばった。
「僕は願わくばそいつに出てきてほしいね」
 マルグリトを労わるでもなく、ファレグは淡々と言った。
「そうしたら僕の手でそいつを殺してくれるのに」
 マルグリトが少し笑った。
「仮にも公職に就いている人の言葉じゃありませんね」
「僕は別に『魔法適正使用管理部』なんて抜けたっていいんだ。人間がそんなに嫌いでもないから続けているだけで、惰性のようなものだからね」
 人間にはまだ熱過ぎるはずのコーヒーをぐいと飲み干して、
「ま、今は辞める理由もない」
 そう呟いた。


 天の吐息が木々を撫でる。
 閑散とした墓地の階段を、マルグリトは上っていく。師イリーナの眠る場所は、街を見渡せる丘の上にあった。生前のイリーナがそうであったように、墓は街を優しく見下ろしている、秋の風が吹き抜け、枯れた雑草が舞って落ちていった。
 イリーナの墓があるブロックに近付いたとき、マルグリトは奇妙なことに気付いた。墓の前に、誰かがいる。マルグリトはイリーナの縁者に会ったことはない。魔族と結婚するときに縁を切ったという話だけ聞いている。一体誰だろうと思っていると、不意にその人物が顔を上げ、マルグリトを見た。
 深いエメラルド色の瞳をした、ダークブロンドの少年だった。彼は少し驚いた様子を見せ、それから口角を上げた。
「この人の墓に用?」
 マルグリトよりもわずかばかり年上だろうか。大人と言うにはまだやや高い声で少年は尋ねた。
「あ……、はい。あのう、失礼ですがどちらさまですか?」
 少年はあまり親しみを感じさせない笑みを浮かべて応えた。
「人に名前を聞くときは自分から名乗るべきじゃないかな」
 そう指摘され、マルグリトの頬が赤みを帯びる。
「し、失礼しました。ぼくはイリーナ様の弟子でマルグリト・マルセルと言います」
「そう。俺はブラド。ブラド・オラフ。彼女とはちょっとした知り合いでね。へえ、イリーナ・カガロフスカヤの弟子か」
 独り言のように少年――ブラドは言った。
「お師匠様のお知り合い……ですか?」
「ああ。正確には、俺の先生が世話になったって言うべきかな。それよりも」
 ブラドはマルグリトの黒い衣服をちらりと見た。
「君は原始魔法使いなの?」
「え、あ、はいっ、ぼくの魔法は『眼』です。ブラドさん……もですか?」
 無邪気に問うマルグリトに呆れたように、ブラドは肩をすくめる。
「『眼』は利きすぎると太陽光が眩しすぎて肌さえ隠さなくてはいけない、というのは本当なんだな。それにしても君、警戒心がなさすぎじゃないか? そのバッジ、魔法管理課の保安官だろう。……まあいいや。俺の魔法は『血液』。イリーナ・カガロフスカヤと同じだ」
 間が抜けているも同然と言われ、マルグリトは照れ隠しに俯いた。
「あ、今日は夜から嵐になるようなので、そろそろ曇ってきたし帽子ぐらい脱いでも大丈夫かなとは思うんですけど……あ、えーと、あの、お師匠様のこと、もしかして覚えておいでですか? 同じ『血液』の魔法だし、あっ、それでお師匠様とかかわりが?」
 マルグリトの顔がにわかに輝く。
「うわあ、そうなら嬉しいな。ぼくお師匠様のことを話す人がファレグ様……あの、お師匠様の旦那様しかいなくて。ブラドさんてぼくより年上ですよね? ぼくお会いしたことないと思うんですけど、ぼくより前にお師匠様と親交があったんですか? 是非お話を聞かせてもらえませんか?」
 突然機関銃のように喋りだした少女にブラドは面食らうが、それでも彼は努めて冷静だった。
「いいけど……ここでじゃないよね?」
「もちろんです! 良かったら今日夕飯でもご一緒しませんか? うちそんなに広くありませんけど、振舞わせてください!」
 マルグリトは「料理の腕には自信がある」と言って、軽快に笑う。
 ブラドは逡巡したようだが、結局はそれに従うことにしたようだ。
「……じゃあ、ご馳走になるよ」
 ポケットに手を突っ込んだまま、ブラドは答えた。
 その口角がわずかに持ち上がったが――墓前に花を供えるマルグリトに、それは見えなかった。


 日が落ち、夕暮れの余韻が消えかける頃。
 マルグリトの家は街の外れに近い場所にあった。
 カラスが鳴く道をブラドが歩いていく。昼間マルグリトに貰った地図を頼りに、緩やかな坂を上る。
 ブラド・オラフは彼自身がそう言ったように、『血液』の原始魔法使いである。マルグリトの『眼』と違い、血の魔法の利用方法は多岐にわたる。古代文字を描いて詠唱の代替とし、あるいは自らの血を相手に飲ませればそれを操って気道を塞ぐこともできる。また、相手に傷口があればそこへ侵入して心臓や脳に害をなすことさえ可能である。多くの血を使いすぎると自分の身が危うくなるという欠点こそあれ、一対一であれば使い方次第で殆どの敵に対応できるのが『血液』だった。
 人家もまばらな目的地に着く。控えめな佇まいをした家屋の扉をはっきりと視認したとき、ブラドはそっと自らの右手人差し指を傷つけた。
 ちょうど良く、マルグリトがドアを開ける。
「あ、ブラドさん! さっきちょうど晩御飯の用意が出来たところで」
 花が綻ぶようにマルグリトは笑う。テーブルに飾る花を摘もうと外に出た、と言う。その幼いほどの笑顔に、ブラドはちくりと罪悪感を覚えた。
 これから――この少女を殺さなくては。

 マルグリトは手近な花を数本手折ると、ブラドを招き入れる。広くはないと言ってはいたが、わずか十六歳で公務員試験に合格するほどの実力者らしく、マルグリトの家はそこらの単身者と比べるとかなり見栄えがするものだった。
 ブラドの、傷付けた指からじわりと血が滲む。ダイニングへと案内に歩くマルグリトの背がやけに小さく見える。指先から血は床に落ちない。手の中に留まったまま質量を増していく。ブラドは右腕を持ち上げる。溢れ出た血が十分に溜まるまでの時間が長く感じた。そして、その時がきた。
「悪いな、マルグリト・マルセル」
 マルグリトの手から花が零れ、廊下に落ちた。
 ブラドの人差し指から伸びた血液の帯が、マルグリトの白い喉をきつく締め上げていた。
「……っ」
 マルグリトは声もなくもがく。血の凶器と自分の喉の間に指を挟もうとするが、強固な魔法がそれを許さない。ブラドは更に強くマルグリトの首を締め付ける。高揚にも似た感覚がブラドを包む。マルグリトが喉をかきむしった。
 二、三度足先を痙攣させて、やがて若い保安官は動かなくなった。ゆっくりとその身体が倒れていく。
(こんなもんか)
 くずおれるマルグリトを見つめながら、初めて犯した殺人にブラドは冷めた感情を抱いた。そしてマルグリトの身体は、年季の入った木の床に音もなく倒れ伏す。

 瞬間。

 ブラドの視界は反転した。ワックスの掛けられていない廊下にしたたかに叩きつけられる。
「な……っ!?」
 衝撃にわんわんと撓む世界が、急激に色褪せていく。
「ブラド・オラフ」
 覚えのある声が聞こえたとき、ブラドは咄嗟に血の細い檻を作り出し、自分の周りに展開した。それが彼が師から教わった自分を守る方法の一つだったから。立派な家は見る影もなく急速に荒廃し、起き上がろうとしたブラドの手をささくれ立った木が傷付けた。屋根が崩れ壁が破れたそこは既に人の住む建屋ではなかった。そして今、警棒を突き付けてブラドに呼びかけるのは、
「『魔法による殺人未遂』の現行犯であなたを逮捕します」
 斃れたはずのマルグリト・マルセルその人だった。
「『幻影』か……!」
 眩暈から回復しつつあるブラドは吐き捨てる。幻影を殺したとき、自分は背負い投げられたのだ、とも気付く。
「何で判った」
 ご丁寧に街外れの廃屋に案内して、幻影の自分を殺させるとは。
「ぼくはこれでも最年少で国家試験に受かった『保安官』ですよ? あれほどの殺意に気付かないほど鈍感ではありません」
 先ほどのブラドよりもずっと冷たい声でマルグリトが言い放った。
「誰に雇われました?」
「言うかよ」
「……十九時半になれば応援がやってきます。自分の罪を軽くしたいのであれば大人しくしていることです」
「なるほどね」
 ブラドは奥歯を噛み締める。
「つまりそれまでにあんたを殺して逃げれば問題ないってわけだ」
 マルグリトの与えた『チャンス』を無視して、ぶんと空気が鳴り、血の檻が細身の槍に変化した。空を切って槍が飛ぶ。槍に貫かれたかに見えたマルグリトは霧散する。一歩離れた場所に現れたその本体が警棒で槍を叩き落した。風が強まり、ぎしぎしと家を揺らす。そのせいでマルグリトの気配が掴みづらい。
「どうして、ぼくを殺そうと?」
 背後から声がした。即座に振り向くが、そこにマルグリトはいない。
「『どうして』? あんたがさっき言ったんだぜ、『雇われた』んだって。それにあんたも原始魔法の性質は知ってるだろう。『相手の魔法を吸収することで強くなる』……俺は言われたんだ。どんな手を使ってでも強くなれってね」
 ブラドはもう使われなくなって数十年経つであろうキッチンへと歩く。
 がこん、と部屋の隅から物音がし、ブラドはマルグリトがいると判断したそこに血のダガーを放つ。ダガーは壁に突き立ったが、手応えはない。
 代わりに容赦のない鉄拳がブラドの頬を殴った。
「ぐっ!」
 マルグリトが囮代わりに放った警棒がからんと床に落ちた。
「それはあなたの『先生』にですか」
「ああそうだよ。あの人は孤児だった俺を拾って育ててくれた。命の恩人だよ」
 よろめきながら錆のついた包丁を、ブラドは手の甲に迷いなく走らせた。ぶつりと皮膚が断たれ、見る見る赤いものが溢れる。
「あなたはその恩人の言葉に縛られているだけではないんですか」
「縛られて何が悪い? あんたこそ薄情じゃないか、俺の顔も忘れてるなんて」
 ブラドが手を振る。細かな血飛沫がそこらじゅうに落ちた。
「……? 何のことです?」
 困惑したようなマルグリトの声の真下、空中に血の一滴が浮かんでいた。――そこか。
「『お師匠様』を殺されておきながら、犯人の顔も覚えてないってか?」
「……!? うわっ!」
 各所に飛び散った血が集まり、ぞわぞわと見えないマルグリトの衣服の表面を移動する。血の集まりは軍隊蟻の群れのようにマルグリトの左手を侵食していく。それは皮膚の上で古い文字を形作り、呪文になる。対象者への『眼』の幻覚を打ち消す、シンプルな呪文に。
「あっ!」
 廃墟の中に、ほのかに差し込む街の光に照らされて、マルグリトの姿が明らかになる。手甲を外した左手首に、びっしりと血の紋が刻まれていた。
「無理に魔法を使おうとすれば暴発するぞ」
「あなたが……お師匠様を殺した、犯人……!?」
 もはやマルグリトの関心は過去に捕らわれていた。師イリーナを殺したと名乗る犯人が目の前にいる。しかし行き先を失った魔力が左手を鬱血させ、眩暈を起こしてマルグリトは膝を付いた。
「イリーナ・カガロフスカヤは『血液』の魔法使いだった。俺と同じな。だが俺の魔法は本来もっと……実用に耐えないほど弱かったんだよ」
 マルグリトの手が震える。
「だから俺の先生は考えたんだ。同じ血液の魔法を取り込むことで、俺の魔法を強化しようと。俺は目的を遂げたさ。お前の師匠の血を飲んで魔法を強くした。でもその代わりに、先生は死んじまった……」
 不機嫌そうにブラドが調理台を蹴った。
「死んだ……?」
「お前の師匠に殺されたんだ」
 言うや否や、ブラドは容赦なくマルグリトを蹴り上げた。
「うっ、ぐ……」
 うずくまってマルグリトが呻く。
「やってくれたよなあ。やっとこさイリーナ・カガロフスカヤの血を飲めたと思ったら、あいつは最後の力で俺と先生に重傷を負わせたんだ。俺は見ての通りだが先生は助からなかった。……何ガンくれてんだよ? こっちだって先生殺されてんだ、イーブンじゃねえか」
 何が、とマルグリトが口の中で毒づいた。
 何がイーブンだ。勝手に強さを求めて、勝手にお師匠様を殺したくせに。
「ゆるさない……っ」
 震える左手を広げ、魔石に魔力を注ぎ込む。
「おいおい、もう俺に『幻影』は効かない。そのまま魔法を使うと魔力に負けて手が吹き飛ぶぞ」
 意地悪くブラドが笑った。
 ブラドを強く睨みつけたまま魔法を使うマルグリトの顔は蒼ざめている。魔石の一つに魔力が満ち、赤い石がすっと色褪せた。同時に、左手の表皮の一部が裂ける。びしゃ、と吹き出た血が、血のまじないの文字を一部覆い隠した。少しだけ、血と血が混ざり合う。
「うあっ!」
「だから無駄だって言ってるだろ。あんたの姿は消えてないし、幻覚も何も見えない。あるのはあんたにとって都合の悪い現実だけだ」
 冷酷にブラドは言い放ち、先ほど自分の手を切った包丁を持ち出した。
「最低でも目玉くれればそれでいいんだけどな。眼球ってどうやって抉るんだろうな?」
 ブラドは腕時計に眼をやり、十九時を回っていることを確かめると、小ぶりな包丁を握る手に力を込めた。
「まあいいや。俺も先生に倣う。悪いけど死んでくれ」
 柄を握り直す。
 一歩踏み出したその時、――ブラドの足元に黒い影が広がった。
「……っ、何だ……!?」
 ブラドは思わず後ずさった。
 影は見る見るうちに立体と化し、質量を得て形になる。
 灰色の肌、狐面のような容貌。漆黒の外套を羽織った魔物の姿に。
「『幻影』は効かないはずじゃあ……!?」
 驚愕の表情を浮かべるブラドに、"幻影"が手を伸ばした。
「残念ながら僕は『幻影』じゃないんだよ」

 空虚の空間から現れた手が、ブラドの喉を捕らえた。
「ファレグ様、その人を殺しては駄目!」
「っく、」
 喉に掛かった負荷を逃すため、ブラドの足が爪先立ちになる。
「どうしてだいマルグリト」
 ブラドの手の甲から流れ出す血が無数の矢となる。矢はファレグを貫かんと飛んだが、
「無駄だよ」
 魔物の肌のすぐ手前で霧のように蒸発した。ブラドの喉を掴む手に力が入る。
「魔族は原始魔法に対抗するすべを持っている。君の攻撃なんていくらでも打ち消せるよ。君は教えてもらわなかったのかな」
「ファレグ様!」
「言っただろう。僕はイリーナを殺した犯人を殺してやりたいと」
「その人は、お師匠様を殺してはいません!」
 叫んだマルグリトの言葉に、ファレグの手がやや緩んだ。
「何?」
「ぼくは思い出した……全部思い出しました。お師匠様はその人の先生に殺されたんです。その人はお師匠様の血を飲みはしたけれど、殺してはいません。お師匠様は相打ちになって、最期にその人と彼の師匠に血呪の魔法を掛けてぼくからずっと遠くまで引き離したんです!」
「……それは本当かい」
 ファレグはブラドに問う。
「俺の魔法を強化するために先生はイリーナ・カガロフスカヤを殺したんだ。俺が殺したも同然だ」
 掠れ声でブラドが答えた。
「君の師は?」
「……そいつの師匠の魔法で随分歩かされたが、結局はそれが元で死んだよ」
 苦々しげにブラドは言う。
 ファレグがブラドの首から手を離した。ブラドは勢い余って古ぼけた床に倒れ、咳き込む。微小な埃が空気中に舞った。
「ふうん。じゃあ、君の中にはイリーナの血も流れていると言うわけだ」
「ファレグ様……、」
「……食い殺したりしないよ。僕にそんな趣味はない」
 仮面じみた顔からファレグの表情は読み取れなかったが、マルグリトには彼が妙に寂しそうに見えた。
「ブラド・オラフ――あなたを逮捕します」
 魔力を封じる強力なまじないが施された手錠が、ブラドの手首をガチャンと囲った。
「あなたの雇い人についてはいずれ捜査の手が伸びるでしょう」
「必要ねえよ」
「えっ?」
 自棄になったようにブラドは溜め息を吐いた。
「あんたの力が手に入らないんじゃ、黙ってても意味がない。洗いざらい喋ってせいぜい減刑してもらうさ」
「……正直と言うか何と言うか……。あなたとは……お師匠様のこと、お話したかったです」
 虚しく笑ったマルグリトを見ながら、ブラドも少し口を歪めた。


「マルセル管理官!」
 カミュ巡査長が走って来た。その向こうでは何人かの警察官や魔法管理官がブラドを連行していく。ちらりとこちらを見たブラドと、マルグリトの目線がかち合う。マルグリトは何も言わずに見送った。ブラドもぷいと顔を背け、歩いていく。
「今日は大変でしたね」
 カミュは時間外労働にも嫌な顔をせずに苦笑する。
「奴を雇った者ですが、案外早く検挙できそうですよ」
「と、言いますと?」
 マルグリトは首を傾げる。
「昼間捕らえられたあの引ったくり犯が、監視対象になっている不法集団の一人で、」
 カミュがペンで頭を掻く。
「どうやらそいつらが用心棒に原始魔法使いを雇ったと言っているようで」
 マルグリトが目を丸くした。
「それは、なんと言うか、また奇遇な」
「ここから先は我々警察の領分ですからね、任せてください。明日になればまたマルセル管理官にもお話を聴くことになろうかと思いますので、今日はこれで」
「はあ。では」
 爽やかに去っていくカミュを見ながら、マルグリトはぺこりと頭を下げた。

 びょうと風に吹かれながら、マルグリトは坂を下るファレグの背を見た。
「あのう。ファレグ様」
「なんだい」
 ファレグの種族は発声器を持たず、声は魔力によってすぐ近くから聞こえてくる。
「ぼくは……犯人の顔を覚えていないのではありませんでした」
 マルグリトは痣になった左手首を見つめた。まだブラドの血が付いていた。
「お師匠様が、ぼくに血文字で魔法を掛けたんです。犯人の顔を思い出せないように。もし犯人に、ブラド・オラフかその師匠に邂逅してしまったときに、罷り間違ってぼくが彼らを殺してしまわないように」
 ファレグは歩きながらも黙って聴いていた。
「覚えていたら、復讐心を募らせていたら、彼らを殺してしまうかもしれないから。ぼくが管理官になっても職務を外れることのないように。お師匠様が混じったブラド・オラフの血にぼくの血が触れて、やっと思い出したんです」
「マルグリト」
 先を行くファレグの声は穏やかだった。
「さっき、僕を呼ぶために君が見せてくれた幻影、なかなか良かった」
「え」
「久しぶりにイリーナの姿が見られた。君も随分鮮明に覚えているものだな」
 マルグリトが頬を赤らめる。
「ぼくは……ぼくも、お師匠様に拾われていなければ、今こうして生きていたかも判りませんから」
「墓参りをしないのか、と君は言ったね」
 土の道が石畳に変わる。
「イリーナはもう死んだ。僕が墓に花を添えたって彼女は喜びなんかしないだろう。死後の世界があるなら別だが、そんなものはないからね」
 だけど、とファレグは言った。
「そこが彼女を憶えている者の、記憶の集まる場所だと言うのなら、――そうだね、僕も行こう。もっとはっきり、イリーナを憶えていたいから」
 風が雲を吹き飛ばす。月明かりが二人を照らした。
「……はい!」
 朗らかにマルグリトの顔が綻ぶ。
「それよりも君、体術だけでも彼に勝てたんじゃないかい?」
「えっ」
 ぎくり、とマルグリトの肩が強張った。
「なんでわざわざ僕を呼んだの」
「え、いや、それは、その」
 確かに保安官であるマルグリトは体術の教練を厳しく受けている。特別に訓練したわけでもなさそうなブラドになら勝ることが出来るだろう。
「君、もしかして僕を彼に会わせようとしたね?」
 立ち止まり、開けているのかいないのか判らないような目でファレグはじっとマルグリトを見た。
「う……」
「……まあいいよ。僕も人間に混じって暮らすうちにそういう気持ちも解るようになってきた」
 たじろぐマルグリトに、ファレグが溜め息混じりに呟いた。
「彼はイリーナの最期に立ち会った人間の一人だものね」
「すみません、余計な事とは思ったんですけど」
 ファレグは困ったようなマルグリトをしばらく見ていたが、また歩き出した。
「構わないよ。そのおかげでイリーナに会えたからね」
「……はい」
 マルグリトの声は風にかき消された。
「泣きたいときは泣くといいよ」
 雨の匂いがして道を往く人々に降水を予感させる。
「……はい」
 今夜はやはり嵐になるだろう。
「感情の消化手段の豊富さは人間の特権だ」
 じゃあ、とファレグは手を振った。管理課宿舎の前だった。
「……、はい。ありがとうございました。おやすみなさい」
 深々とお辞儀をして、マルグリトは門に向き直った。
 その目に涙が滲んでいた。

 明日からもまた普通の毎日が始まる。
 だが、この夜はせめてイリーナとの思い出に浸ろう。
 ファレグもきっとそうするだろう。

 三つの魔石が埋まる手のひらを握り締めて、マルグリトは門をくぐった。














15:39 2014/10/30

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