長い階段を上りきって、飯島隆は溜め息をついた。ホームはやけに混んでいる。
 鞄からハンカチを取り出そうと思ったが、今日に限って忘れてしまったらしい。いつもなら妻の雅恵が抜かりなく支度をしてくれているのだが、生憎と彼女は昨夜から友人と旅行に行ってしまっている。たまの息抜きだから行って来なさいと快く承諾したものの、いざ自分一人の生活になってしまうと何とも心許なかった。
 まず、食事に困った。一人で外食するのも気が引けるのでコンビニ弁当を買って食べた。風呂は勝手に湧くものではないし、布団もいつの間にか敷かれているものではない。それを十数年ぶりに思い出した。去年大学に入って独り暮らしを始めた一人娘の真奈美が幼い頃は、それでも自分の物より小さなサイズの布団を敷いてやったりはしたものだ。ランドセルを背負った姿に「忘れ物はないか」と声を掛けたことも、昨日のことのように鮮明に思い出せる。
 隆は自販機でペットボトルの水を買い、開けながらベンチを探した。幸い席が一つ空いている。目的の電車まではまだ十分に時間がある。普段よりも早く家を出たのは、することがなかったからだ。腰掛けると思わず「よいしょ」と声が出てしまった。おれももう年寄りだな、なんて隆は自嘲する。
 三人掛けのベンチのあと二つには、老夫婦が座っていた。手に持った小銭を二人で数えている。帰りの電車賃でも勘定しているのだろうか。睦まじい様子を見ていると羨ましくなる。自分たち夫婦はこんなふうになれない。弁当やみかんを持って二人で旅をするような、そんな関係がもう作れないことを、隆は雅恵に告げられた。
「真奈美が大学を卒業したら、離婚しましょう」
 ほんの二週間前の事だ。最初は何を言われたのか解らなかった。『熟年離婚』という言葉が、まさか自分の身にも降りかかってくるとは思わなかった。隆が家庭を顧みなかったわけでも、酒やギャンブルに溺れたわけでもない。まして、自分や雅恵が不貞を働いたわけでさえない。ただ、元々他人だった二人が数十年一緒に居て、また他人に戻るだけだ。世の中は常に流動的で、自分たちもその一部に過ぎないというだけのことなのだ。
「お一つ、如何ですか」
 隣の老夫婦の夫の方が、隆に蜜柑を薦めてきた。
「あ、ああ、これはどうも。頂きます」
 思いに耽っていた隆は慌てて手を差し出した。
「愚妻が買いすぎましてな。二人なんだから一袋もいらんだろうに」
「あら、あなたがわたしの分まで食べてしまったのは一度や二度じゃありませんわよ」
 うちの人がごめんなさいね、と老婦人が笑う。目尻の皺が優しげで、隆は孫の大学入学を見届けるかのように亡くなった母親を思い出す。脳梗塞をやってから寝たきりで、介護のほとんどを雅恵が担っていた。母の死は、介護生活から雅恵を解放するとともに、母自身を苦痛から救うことになったのではないかと思う。

 夏の朝に吹き抜けた爽やかな風に、蜜柑の香りが混ざる。隆はさっき老夫婦の主人に貰った蜜柑を手の中で転がしながら、まだ来ない電車を待つ。
「しかし、今朝は人が多いですな。どこかで事故でもあったんだろうか」
 老人が言う。
「ええ、私はずっと電車通勤ですが、こんなに人が多かったことはありませんよ」
「でしょうなあ。この分じゃあ、次のには乗れないかもしれん」
「そりゃ困る。都会なら二分か三分待てば次のがやってくるが、こんな田舎じゃあねえ」
 隆が苦笑すると、老人も肩を揺らした。
「はっはっは、いやまったく」
「そちらは、ご旅行ですか」
「ええ、趣味でね。定年してからは退職金で、あっちこっちと」
「それは羨ましい」
 自分の時にはいくらの退職金が出るかな、と隆は頭の中で計算を始める。そこで気付く。真奈美が大学を卒業する年は、……自分の定年と重なる。隆は絶望的な気持ちになった。雅恵はそれを見越して、財産分与で退職金の半分を持って行くのだろうか。介護をさせ続けた慰謝料だとかそんなことは一言も言ってなかったが、世の女にあるがの如き金銭への執着心が我が妻にも存在すると思うと、何となく侘びしく思える。雅恵が長く専業主婦でいたため、仕事というものに縁が遠くなっているのは解る。長年連れ添った妻なのだし、当面の生活費は面倒を見たっていい。だが、金を見る目でこちらを見られては自分の存在価値に疑問を抱きたくなってしまう。
 ざわざわとホームには人がひしめいている。いつも電車で見かける顔ぶれをつい探す。と、よく考えたら今日はいつもより早い時間の電車に乗るつもりで来たのだ。知った顔などいるわけがない。平日の朝にしては心持ち年寄りが多い気がするが、今日は老人会の旅行でもあるのだろうか。
「あんた、子供さんはいなさるのかね」
 老人が尋ねた。
「ええ、娘が一人。去年大学に入りました」
「はああ、そりゃあ良かった。じゃあ少し遅いお子さんですな。可愛くってしょうがないでしょう」
 真奈美は隆が三十八歳の時の子供だ。
「ええ……、まあ、しかし女の子というのは難しいものですね。小さい時はあんなに素直で、大きくなったらお父さんと結婚する、なんて言ってくれるのに、難しい年頃になるともう、何を話していいか分からない。それでそのままお嫁に行っちゃうと思うと、やり切れませんよ」
「はっはっは、いやあ、そりゃ息子でも変りませんわい。うちのせがれはわしに反抗して家を飛び出して、今じゃどこで何をやってるんだか。孫の顔でも見せにくりゃあまだ可愛げがあるもんですがね」
「それはお寂しいでしょうね」
 いやいや、と老人が首を振った。
「うちにはあと三人息子がおりますんで、何のことはないですわ。男ばっかりで、金が掛からねえのは良かったな」
 最後のは夫人に向けて言ったらしい。
「わたしは一人くらい女の子が欲しかったんですけどねえ」
「なんだ、男腹だからしょうがあるまいよ」
 憎まれ口を叩き合う夫妻を見ていると、隆は羨ましくなる。雅恵とはもう長い事、こんな風に会話した覚えがない。夕食時はテレビが点いていて、隆はそれを見ている。雅恵は自分の分を置いておいて、母の食事の世話をする。その母が死んでからも、食卓で会話を交わすことは少なかった。変化のない日常、それがずっと続くと思っていた。そうして歳を重ねて、寂しい頭髪も白くなり、孫を見て深く皺の刻まれた顔をほころばせ、縁側でのんびり過ごすのだと。おれの幻想だったのか。隆は手の中でぬるくなってしまったみかんを見つめた。

 『二番線に、電車が参ります。ご注意ください』
 アナウンスにはっとして顔を上げる。ホームに電車が滑りこんでくる。ブレーキの軋む音が聞こえた。ややあって電車は完全に止まり、ドアが開く。だが、誰も降りない。駄目押しに、車両の窓を見て隆はがっかりした。どう考えても、今ホームに居る大勢の人間を詰め込めるほど車内に空きはなさそうだ。それでもかなりの人数が狭い車内へと押し入ったが、予想通りほとんどがあぶれてしまい、結局半分以上の人々を残したままドアが閉まってしまった。立ち上がりかけていた隆はまた腰を下ろす。
 電車が動き出す。徐々にスピードを速めていく鉄の箱を見送っていると、不意に違和感を覚えた。
 あの顔は、一瞬窓から見えたあれは。
「雅恵!」
 思わず叫んでいた。見間違いでなければ、あれは妻に違いない。旅行に行っているはずの彼女が、何故自分と同じ方向の電車に?
「どうかしましたか」
 老婦人が首を傾げた。
「いや、家内が」
「奥様?」
「旅行に行っているはずなんです、どうしてあの電車に」
 老夫婦が顔を見合わせる。
「ご旅行に。どこに行かれるご予定だったの?」
 隆はううんと唸った。妻はどこに行くと言ってただろうか。確かに行き先は聞いたはずだったのだが、思い出せない。一緒に行くのは近所の主婦仲間だとは聞いている。だが、そういえばその主婦仲間の名前すら知らない。ゆきこさんだったか、みゆきさんだったか、たしかそんな名前だ。旅行に行くほど仲のいい妻の友人の名も知らないで、どこに行くのかも知らないで、隆は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。妻が自分に愛想を尽かした理由はこんな些細なことの積み重ねにあるのではないか。今までこうやって、妻に関心が薄い事で、彼女を傷つけてきたのではないか。
 良からぬ想像が頭をもたげる。もしかして、旅行は外泊するための口実ではないか。昨夜晩酌をしながら見たテレビ番組が脳裏をよぎる。あれは毎週木曜日の夜にやっているドラマだった。人気の刑事もので、もうシリーズ化されて久しい。昨日の内容はこうだ。
 日曜大工が趣味の良き家庭人と評判だが、実は陰で不倫をしている夫がいる。既に妻は気が付いており、夫に黙って離婚の準備を進めている。夫は今まで残業や出張と偽って愛人と逢瀬を重ねていた。やがて妻は不倫の証拠とともに夫に三行半を突き付けるが、激高した夫に殺害されてしまう。夫は得意の工作で妻の死体を隠すが、主人公である刑事たちにじわじわと追い詰められていく……。
 隆が思い出したのは、『残業や出張と偽り不倫』という部分である。まさか、妻は自分との結婚生活に嫌気が差して浮気をしているのではないか。旅行は友人とではなく、愛人とのものではないか。もちろん今まで雅恵が外に男を作っている兆候などなかったが、それは自分が妻に関心を持たなかったために気付かなかっただけなのかもしれない。まさかそんなはずはないなどと、どの口で言えようか。

 思えば、雅恵には苦労ばかりかけて来た。子供がなかなか出来なかったのは隆の体質のせいであるが、それを認められない母との折り合いは良くなかった。孫が生まれてからは徐々に和解したようだが、隆が姑からの防波堤になってくれなかったことで一度大きな喧嘩をしたこともある。仕事で上手くいかない時に八つ当たりをした事さえある。隆の望みで家庭を守っている雅恵に、お前に仕事の事は解るまいと蔑むように言ったことはさすがに反省せざるを得なかった。
 それでも大した文句も言わず、雅恵は良く頑張った。一人娘の真奈美が立派な婦女になったと胸を張って言えるのは雅恵のおかげだ。雅恵は真奈美を厳しく躾けた。そのせいか、一時は雅恵よりも隆に懐いていたほどの娘である。懐いてくれるのが嬉しくてつい甘やかし、教育方針の違いで衝突したこともあった、と隆は思い返す。雅恵が折れなかった結果、真奈美は倫理観や正義感が強く、優しく家庭的な雰囲気のある娘に育った。
 真奈美がいつかお嫁に行く時、自分は父親の席に座れるだろうか。心穏やかに妻と過ごす老後と言う将来像が崩れた今、隆が未来に望むことはそれだけだ。自分は泣くだろうか。真奈美は自分や雅恵に手紙を書いてくれるだろうか。そうであってほしい。そう思うと、自然に目尻に涙が滲んだ。涙脆くなるのは歳を取った証拠だな、と鞄をまさぐって、ハンカチは忘れたのだと思いだした。

 隣の老夫婦が立ち上がる気配がして、気が付くと次の電車がホームに停まっていた。いつの間に来たのだろう。感覚も鈍くなってしまったのだろうか。座席は随分空いていて、今度は乗れそうだなと、ふと隣の車両を見ると、どこかで見た老人の顔があった。だがどこで見たか思い出せない。大して会ったことのない人物なのは確かだ。
 七人掛けの半分くらいは空いていたので、隆はまたも老夫婦の横に座ることになった。鞄から朝刊を取り出し、迷惑にならないよう四分の一に折った。経済面、政治面、それから社会面と慶弔欄。そこで目が止まった。不幸欄に、見た名前がある。考えるまでもなく、それは取引先の会長の名前だと判った。そして、さっき見た隣の車両の老人がその会長だということも。電車は次の駅をアナウンスしない。一面には隆がいつも使う電車の脱線事故が大きく記事になっていた。線路を走る音はしない。窓の外を見ると、いつもの通勤景色とは違う風景が流れていた。老夫婦は蜜柑を食べながら、和やかに談笑している。顔を上げると、乗っているのはやはり老人が多かったが、皆一様に穏やかな表情をしていた。もう一度新聞に目をやった。脱線事故の日付は昨日で、死者はいないが負傷者数名、重体者一名と書かれている。その下の記事を見て、隆は息を呑んだ。関東の高速道路で起こったバス事故の記事だった。長野行きの夜行バスが崖から転落し、死亡者多数……そこで思い出した。雅恵が旅行に行くと言った先は長野だ。夜行で行くのだと前日の晩から支度をしていた。隣の車両を見た。吊革につかまっているのは紛れもなく、訃報の載っていた取引先の会長だ。老夫婦を見た。一瞬、二人の頸に何か紐のようなものの痕が見えた。隆はゾッとした。この電車は、生きている者の乗る電車ではない。
 音もなく電車が停まった。ドアが開く。隆は立ち上がり、駆け出した。今なら間に合うかもしれない。一名の重体者とは自分の事に違いない。なら、電車を降りれば……。
 ホームとの境目に足を掛けたところで、隆は止まった。
 そうだ。
 雅恵も乗っていたのだ。
 雅恵はもう行ってしまった。
 間に合わない。
 妻を置いて、自分だけ助かるのか。
 逡巡に目眩がした。
 雅恵――。







 飯島隆は、泣きながら目を覚ました。
 全身の痛みに呻きながら横を見ると、真奈美が泣いていた。
「お父さん」
 隆は無言で頷いた。
 雅恵はやはり助からなかったのだろう。
 真奈美はわっと顔を覆った。しかし、これで良かったのだ。一度に両親を亡くさせてしまうようなことにならなかっただけ、良かったと思うしかない。流れる涙を拭うすべもなく、嗚咽を漏らして、隆は思った。
 いつか来る真奈美の結婚式の時は、きっと雅恵の写真を飾ってやろう、と。
 持っているそう多くはない写真の中で、一番とびきりの笑顔のものを。
 苦労を掛けて、我慢をさせて、気遣ってやれなくて、寂しい思いをさせたとしても、その瞬間、雅恵はきっと幸せだっただろうから。







2013/12/20




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